天正八年(1580)―文禄四年(1595) ただし、没年に関しては、諸説あり。 最上義光と正室の大崎夫人の娘。 豊臣秀次の側室。

瑞泉寺の「豊臣秀次公略伝」によると、お伊万という名だったという。 文禄元年、(1591)秀吉は当時秀吉家臣となっていた、三戸城の南部信直を救援させるため、当時信直の親戚筋で反乱を起こしていた、九戸政実討伐のため、甥の豊臣秀次を総大将として平定に向かわせた。この帰り、山形城に立ち寄った秀次は、そこで給仕をした義光の三女の駒姫を気に入り、一緒に京都に連れ帰りたいと申し出る。

義光はこの申し出を承知したが、なにぶんまだ幼いため、数年後に成人した後、京都に送ると約束した。

当時秀吉の後継者と目されていた秀次の側室になるという事は、願ってもいない玉の輿であった。

おそらく、この頃から、駒姫は将来の秀次の側室として、行儀作法などを教え込まれていたのだろう。

 

 

 

 

しかし、数年後駒姫が上洛し、聚楽第で秀次との対面を待っている間に、思わぬ悲劇が彼女を待ち構えていた。

文禄四年の七月三日、関白秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられ、高野山で自害させられてしまった。

そして、連座して何と駒姫ら側室達や子供達まで、この約一ヶ月後の八月二日、京都の三条河原で処刑されてしまう事になる。

他の女性達のように、三条河原で手を合わせながら、自分の身に迫りくる、処刑人の白刃を見つめる駒姫の悲しみと絶望と恐怖は、どれ程だったのだろうか。関白秀次の側室になるはずが、この急激な運命の変転。しかも、自分はまだ秀次と対面すらしておらず、自分に何の罪があって死なねばならないのか、このあまりにも理不尽な運命に、駒姫の心の中は、悲しみと嘆きと怒りで一杯だったのだはないだろうか?

この時に、駒姫が詠んだという辞世の句が伝えられている。

「罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき」。

しかし、この歌はあまりに仏教思想が色濃いというか、抹香臭いというか、罪なくして死ぬ少女の、当時の駒姫の胸中を表わすものとしては、あまり似つかわしくないような気がする。

これはこの時の駒姫の心情を語るものとしての、後世の仮託ではないだろうか? 実の身で処刑されねばならない十代の少女にしては、あまりにも立派過ぎる心境ではないだろうか? 

ここまで短期間で、このように理不尽な死に方をしなければならない少女が、このような心境にまで、そう簡単に到達できるものなのだろうか?

 

 

この娘の死を聞かされた母の大崎夫人は悲嘆し、そのまま後を追うように続いて、十四日後に亡くなってしまったという。

京都の瑞泉寺に、秀次を始めその妻子達の墓所が建てられたが、義光自身でもこの不幸な母子のために、専称寺を天童から山形城下に移し、駒姫の菩提寺とした。そして更に、二人の追慕像を描かせ、二幅のこの肖像画を、専称寺に納めさせた。

いずれも、京都の名のある絵師によって描かれた肖像画らしく、駒姫は白い打掛に、浅黄色の無紋の小袖姿で、左手に数珠を持ち、その可憐な美少女の面影を伝える姿である。

そして母の大崎夫人は、名門大名家の夫人らしく、撫子の花模様がある白地に、裏が赤の打掛に、薄い黄色に黒の雲模様、浅黄色で模様の境を囲まれた薄い朱色と金色の花形の模様の小袖を纏い、両手に数珠を持ち、品の良い衣装などの雰囲気である。

ただ、駒姫の打掛姿が、若い姫君にしては、無紋の浅黄色の小袖に白い打掛という、地味な感じの衣装であり、また二人共に、打掛の色が清らかな白地なのは、あのように非業の死を遂げた駒姫とその死を嘆き悲しみながら娘に続いて亡くなった大崎夫人と、いずれも悲劇的な死を遂げた彼女達に対する、弔いの目的を強く持って描かれた絵だからだろうか?

大崎夫人
大崎夫人
駒姫
駒姫
瑞泉寺
瑞泉寺