築山殿

542―1579。

 

川一門で今川氏重臣の、関口義広の娘。

徳川家康の正室。松平信康の母。

その生母は「寛政重修諸家譜」によると、関口義弘の正室になった、今川義元の妹とされ、つまり築山殿は寿桂尼の孫という事になる。

しかし、彦根藩主井伊氏や旗本関口氏には、井伊直平の娘が今川義元の養妹となって、義広に嫁いだと伝える記録もある。

 いずれにしても、この女性が義元の妹分として嫁いだという事が、重要なのだろう。

 

 

そしてこれまでは、この築山殿のそれまで想像されてきた、その気位の高い性格は、彼女が名門今川氏の出である事に加えて、更に公家である寿桂尼を祖母に持つからだというように見られる事もあったようだが。ただ、この「寛政重修諸家譜」の方も、後世に作成された系図や歴史書であるという点では、井伊氏や関口氏の記録などと同様であるので、信憑性については、この家譜の方が圧倒的に高いとも、言いきれないようである。

そしてこのように、これまで築山殿と言うと、その生母は今川義元の妹だと言われてきたことについてであるが。

 

 

 

 

しかし、上記のように、「寛政重修諸家譜」も、あくまで後世に作成された系図・歴史書であるということに加えて、これは全くの私個人の、何となく受ける印象であり、特に明確な根拠などもある訳ではないのだが。

だが、何となく、私は彼女は実際の寿桂尼の孫娘では、なかったのではないか?という気がする。

敢えて言えば、実際に彼女がこの寿桂尼の孫娘であったにしては、彼女達との間に、その具体的な接触の気配らしきものが、一切感じられないことであろうか。またこの寿桂尼は、戦国の女性にしては珍しく、本人が前面に立って公的な活動を数多くしている女性でもあり、比較的関連記録なども残っている方だと思う。だから、築山殿がそんな彼女の実際の孫娘であるのならば、何か寿桂尼と彼女との間の具体的な交流の形跡らしきものが残っていても、良さそうな気がするから、というのもあるかもしれない。

 

 

 

また寿桂尼の娘で他国へ嫁いだ、北条氏康正室の瑞渓院とは違い、同じ駿河国内に暮らし、これも寿桂尼の娘だとされる、関口義弘の正室なら、なおさらその彼女及び彼女の子で自分には孫であるはずの築山殿との交流らしき形跡が残っていても、私は良さそうに感じるのだが。また、実際にも、この瑞渓院の生んだ男子であり、これも寿桂尼の孫である北条氏規の彼女の可愛がりように比べると、こちらもやはり彼女の孫の一人であるはずの築山殿、そして更にその息子である信康に対しては、一切そういった形跡が見られず、やはりどこかその関係が疎遠なように思える。

また少なくとも、一五六〇年に今川義元が討たれる、桶狭間の戦いまでは、築山殿はその三年前に家康と結婚するまでは、駿河国領内の父親の本拠地である瀬名に暮らし、更にその後は夫の家康と共に駿府にいたはずである。つまり、こうして築山殿は、合計十八年程は、駿河国内に暮らしていたことにもなる。

また、このように井伊氏や関口氏の方では、築山殿の生母であるとされている、関口義弘正室は、前述の北条氏康正室の瑞渓院とは違い、確実にこの寿桂尼の生んだ娘とまでは、確認できない点と併せて考えてみても、私にはこの築山殿は、寿桂尼の血の繋がった孫ではなかったのではないのか?そしてやはり彼女の実際の生母は、今川義元の血の繋がった妹、つまり寿桂尼の生んだ娘ではなく、井伊直平の娘が今川義元の養妹として、関口義弘に嫁いだ女性ではないのか?というように思えるのだが。

 

 

 

 

なお、築山殿の名前は「瀬名姫」と言ったとするのが一般的だが、彼女の出自が瀬名氏であるため、おそらく本名が不明な、他の多くの戦国女性達同様、便宜的に出身の家名を付けて呼んだという可能性が高い。築山殿の場合も、本名は不明という事だろう。

そして築山殿の生年については、家康より九歳も年上であったという説もあるが。

だが、これは気が強くて気位も高い、年上の姉さん女房と結婚して苦労した家康、という事にしたい図式が浮かんできてしまい、やはり、彼女を貶めるための説ではないだろうか。おそらく築山喉は家康と同年代であったと考える方が、妥当であろう。

 

 

 

 

 一五五七年の五月十五日に、元服した松平元康と結婚。結婚した翌年の三月六日には、嫡男の竹千代が誕生。

更にその翌年には、長女の亀姫を産んでいる。

永禄三年の五月には、このように合計二子にも恵まれ、平穏な新婚生活を送っていたと思われる築山殿にとって衝撃的かつ、彼女の運を大きく変える事になる、歴史的出来事が起こった。桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれたのである。

そしてこれを機に、これまで今川氏に従属させられていた形だった松平元康は、すばやく岡崎に帰り、今川氏から離反して自立し、 今川への攻撃を開始した。

その頃の築山殿は、子供達と共に駿府にいた。

二人の生まれたばかりの赤子を抱え、夫の元康が敵方になってしまい、おそらくこの時の彼女は、心細く、先行きにも不安を感じていた事だろう。

今川氏に従属していた武将でありながら、今川を裏切った敵将松平元康の妻として、いつ自分と子供が今川氏真に殺害を命じられるかもわからないのである。

 

 

しかし、永禄五年になり、家康が鵜殿長照の居城の西郡上の郷城を攻め滅ぼし、鵜殿長照の子供達二人を捕らえた。

鵜殿氏は、今川氏と近い婚戚関係にあるため、質交換が成立し、晴れて築山殿母子は、無事に夫の許へと帰った。築山殿は、胸を撫で下ろす思いであっただろう。なお、この人質交換には築山殿の父関口義広の奔走があったという。

しかし、おそらくこれを怒った氏真により、築山殿の父義広は、自害させられたという。

このように父親を失った上に、築山殿は更に厳しい運命の転変に直面する事になる。

 

 

岡崎へ来た築山殿は、岡崎城に入る事は許されず、「牧信友記」に基づく「築山御前考」の考証によると、築山殿が岡崎に来てから住んだのは、西岸寺の西一帯だという。

この付近を築山といい、ここに居住したので「築山殿」と呼ばれるようになったという。

そして後に、岡崎城内の東曲輪に移ったとされる。この事に関しては、近年徳川氏研究者の、平野明夫氏により、かなり衝撃的な仮説が提示されています。この時に、築山殿が家康の正室でありながら、夫の家康が住む岡崎城ではなく、城外に住まわされた事に、彼女の立場が端的に表われているとしています。

つまり、この時の築山殿は、すでに家康の正室としての立場を、失っていたのではないか?というのです。戦国時代の常識から考えて、かつて家康の生母お大の方もそうであったように、家康が今川氏に敵対した時点で離縁されるのが当時の常識であり、彼女が離縁されなかったのは、嫡男信康の母だったからであろうとも指摘しています。

 

 

この時、おそらく信康も、家康と岡崎城に住んでいたと考えられる。その内家康は、岡崎城から浜松城に移る。元亀元年の六月である。

岡崎城は嫡男の信康を置いて、三河国衆の統括者とし、自分は徳川領国全体に君臨するという体制を敷いた。こうして男の信康が三河国衆の統括者とされた事により、生母の築山殿も、ようやく岡崎城内の東曲輪に入り、息子信康と共に住む事ができたと考えられる。

元亀二年の八月には、信康が元服する。

この時期の、築山殿に関する逸話としては、結城秀康の母の、お万の方事件がある。

お万は、元築山殿の侍女であった所を、家康の寵愛を受け、家康の子供を懐妊する。

 

それを、築山殿が怒り、裸にして縄で縛って浜松城内に放り出された。そこを見回りのために通りかかった本田重次が、お万を助けた。

その後お万は、宇布見の中村家に預けられ、天正二年の二月、そこで結城秀康を出産した。

(「以貴小伝」)。これは、築山殿の嫉妬深さを表わす逸話として、有名である。

 

 

 

 

しかし、当時築山殿は岡崎城に住んでおり、浜松城での家康の動向に嫉妬するような状況にはない。このため、後世の創作と考えられます。

また、この「以貴小伝」という文献も、築山殿の死後、かなり長い間経ってから編纂されたものであり、また作者も不明であり、やはり、この築山殿の嫉妬の逸話には、信憑性に疑問符が付く。

平野明夫氏は、これについて築山殿は自ら身の破滅へと向かっていったのだと強調・印象付けるために、次に来るべき築山殿の運命の前兆として創作されたのではないかとしています。

 更にまた、その根拠の一つとして、永禄八年に家康の次女の督姫が、鵜殿長照の弟長忠の息女から産まれているにも関らず、築山殿がこの時嫉妬を表わしたというような逸話は、伝えられていないとしています。

また、そもそも以上のような考察から考えても、築山殿が本当に嫉妬深かった女性であったかも、疑問であるし、すでに家康の正室としての立場を喪失している状況では、 嫉妬を示すような境遇ではなかっただろうともしています。

 

 

 

そして天正七年の八月、築山殿にとって悲劇的かつ決定的な運命の転機が訪れるのである。

八月に、家康に、徳姫が父の信長に対して築山殿・信康母子の乱行を訴えたとされる、いわゆる「信長の十二箇条」を理由に、信長の命令を受けた家康が、 やむなく築山殿母子の生害を決意したという。(「改正三河後風土記」)。

この中で徳姫が父の信長に対して訴えたという、有名な、築山殿が様々な讒言をして信康と徳姫との夫婦仲を不和にさせた、また自分が産んだのが姫二人だけで男子をもうけないのが不満で、武田勝頼を通じて日向大和守の娘を呼び出して信康の側室にさせた。また築山殿の医師減敬との密通や武田氏との内通。そして信康の僧侶や踊り手への無益な殺戮、また信康が自分の目前で、侍女を殺害したなどの内容である。

 

 

 

 

そして、八月に釈明のために浜松城の家康の元に輿で向かう途中に、築山殿は富塚で殺害、そして信康もそれから約半月で二俣城で自害させられた。

しかし、近年の研究や指摘によると、この書状の中で徳姫は築山殿と信康の事を非難していなかったという。また、平野明夫氏の指摘によると、当時家康側で問題になっていたのは、後世憶測されている、築山殿と徳姫の確執・不和よりも、むしろ信康と徳姫との不和であったとしている。

このように、新たに可能性が指摘されるようになった、信康と徳姫の不和の原因については、当時の具体的な史料が残っていないため、詮索は困難ではあるが、一応、この事に関しては徳姫の方のページで、多少、私なりの推論を展開してみたい。

 

 

 築山殿の悪妻エピソードを数々並べ立てている、この「改正三河後風土記」であるが。

まずこれが成立したのが、この築山殿・信康事件から、二六一年も経った、天保八年(一八四〇)なのである。そしてその史料成立の時代が下るにつれて、内容の信憑性は低くなっていくのが常識である。

なお「松平記」にも、築山殿も日頃の悪逆があったため、自害させられたとしているが、この史料も成立年代が不明であり、信憑性の点でもこれにも疑問が残る点もある。やはり、これらの中での築山殿の悪妻エピソードは、彼女と信康殺害を行なった家康を正当化するために、作られたのではないだろうか?

 

 

 

また従来はこの築山殿と信康母子の家康の処断に関しては、家康の嫡子信康が有能である事を、嫡子信忠のために危惧した信長が、家康に母子の殺害を命じたのだとも、長い間言われてきた。

しかし、この事に関しても、平野氏は事実はこのような今までの憶測とは、異なっていたとしている。

むしろ、家臣達から信康は主君として相応しくないと判断され、武田氏との内通の気配があるとし、これを家康への敵対とみなされ、この事が家康に訴えられた。そして、当時父子の間で最大の政策抗争になっていたと考えられる、武田方か織田方かという対外交渉を巡り、家康の方針とは反する、武田方との内通を疑われた信康は、家康自身の判断により、自害させられたのだという。

更に築山殿も、徳川氏の中では嫡子信康の生母としてのみの、存在価値であり、信康が嫡子としての立場を失ったため、その生母である築山殿も殺害されたとしているのである。やはり、築山殿は悲運の女性であったと考えられる。

築山殿は、富塚の西来院に埋葬された。

享年37歳。

 

 

なおこの西来院には、築山殿の肖像画があり、割と上品な顔立ちの女性に描かれてはいるが、明らかに戦国時代の様式の物ではないため、かなり後になってから描かれた肖像画であると考えられる。

よって、この肖像画により、当時の築山殿の本当の面影を偲ぶことはできない。

 

 

 

 なおもいろいろと衝撃的かつ新しい視点がいくつか示されている、今回築山殿に関して書くのに、かなり参考にさせていただいた、築山殿の章は「戦国の女性たち 河出書房新社」の中でも、特に秀逸なものだと思いました。

 

徳姫

1559―1636。織田信長と側室生駒氏の娘。 徳川家康の長男松平信康の正室。 一五五九年の、十月十二日に、生まれる。

戦国女性、しかも側室の娘でこのように誕生日がわかっているのは珍しく、やはり、これは徳姫が側室とはいえ、信長の子供を三人も相次いで産み、当時信長の寵愛並々ならない妻生駒氏の娘と目されていた事の、表われではないだろうか?

一五六三年の三月二日、五歳の時に家康嫡子で同年の、松平竹千代と婚約成立。 一五六六年、八歳の時に母の生駒氏が死去してしまった。 しかしその翌年にはすぐに、一五六七年に同年の竹千代と結婚、岡崎城に輿入れする。 一五七〇年に 家康が、浜松城に移る、竹千代が元服、信長の一字を賜わり信康となる。

なお一五七〇年に、家康は浜松城に移り、岡崎城主になった竹千代は元服して信康と名を改める。

 

 

 

成長した信康との間に、徳姫は一五七六年と一五七七年に、福と久仁の二女をもうけるが、男子は生まれなかった。

義父家康は信長の信頼厚い同盟者であり、夫信康との間には、二人の姫にも恵まれ、初めは平穏な夫婦生活を送ったと思われる。

築山殿も、いくら今川の敵方に当たる織田氏の娘だからといって、幼い徳姫に対して、そう辛く当たったというような事も、ないと思います。 しかし、その後の築山殿と信康母子の悲劇の死へと思わぬ方へと、事態は進展してまうのである。

一五七九年、二十二歳の時、徳姫は父の信長に書状を送り、信康の旅の法師や踊り手を殺害、姑の築山殿の唐人医師との密通などの、乱行、及び武田側に内通している旨の十二ヶ条を訴えた。

これが元になり、信康母子の断罪が家康に申し付けられ、この釈明のために、浜松城の家康の元に輿で向かった築山殿は、八月二十一日に、浜名湖畔で刺殺され、信康は九月十五日に、二俣城で切腹させられた。 この事件に関しては、従来はいわば、今川と織田という、敵同士の立場に当たる、姑の築山殿と嫁の徳姫の確執が原因の一つとして指摘されてきたが、近年の研究によると、例の書状に、徳姫は築山殿と信康を批判するような事は、書いてはいなかったと指摘されている。 それどころか、平野明夫氏の指摘によると、むしろ深刻だったのは、信康と徳姫夫婦の不和の方だったようである。

 

 

 

現に、これを危惧した信長が、おそらく夫婦を和解させるために、何度も天正四年の十二月二十二日、天正五年の十二月十五日、天正六年の正月十八日と、この時期に集中して、度重なる岡崎入りをしている。どうやら二人の不和は、双方の親をも巻き込むほどの、深刻なものだったようである。 後世でさんざん想像されているような、築山殿と徳姫との間の壮絶な嫁姑バトルが本当だったのかは、このように再考が必要になってきた感じではあるが。

しかし、それにしても、わざわざ子供達の争いに、双方の父親達が乗り出してまで来るとは、やはり只事ではないように思う。

やはり、徳姫が従順でおとなしく、柔和な女性だったとは、考えずらいような気がする。私もこのサイトの中でも、何度か指摘している通り、歴史小説での人物描写を、盲目的に信用する訳でもないが、やはり徳姫は、なかなか強情で、気が強い女性に描かれている事が多いようだ。

 

 

 

河村恵利という漫画家の「五徳春秋」という漫画では、徳姫を素直で可憐で、義母の築山殿にも夫の信康にも従順な女性として描いていたが、私はむしろこういう描写には、違和感の方を強く覚えた。

この作者が、かなりの織田・豊臣びいきの漫画家のようであるという事から考えても。 それに、大坂出身の漫画家だし。

この作品は、築山殿まで才色兼備で、これも非常に善良な女性にしているくらいだったが。 また永井路子も、「日本夫婦げんか考」の中で、これも例によって、この徳姫の事を過大評価し過ぎているようなきらいがないでもないが、夫婦の争い、というよりも、築山殿との争いについては、築山殿や信康だけではなく、徳姫の方にも非がないとは、見ていないようだ。おそらく、このように、近年の研究ではむしろ問題だったのは、築山殿と徳姫との不和よりも、信康と彼女との不和だったという説が主張されるようになってきている事を知っても、私は彼女の徳姫についての見方は、おそらくそれ程変わらないのではないか?という気がするのだが。 徳姫は、権勢並びない信長の長女であり、また愛妾生駒氏の娘でもあり、もしかしたら勝気で頑固な所がある女性だったのではないだろうか? また、信康の方も頑固な所がある人物だったのかもしれず、徳姫のこのような譲らぬ性格が、より二人の関係を、こじれさせてしまった側面が、あるのではないだろうか?

 

 

 

 

もしかしたら、何かの折にやや軽率な所のある信康が、徳姫の父信長を批判するような言動でも、見せてしまったのかもしれない。

信康の方に、実際に武田氏と内通していた確証はないものの、父家康の堅持している既定の外交方針である、織田氏との同盟維持よりも、彼が新たに武田氏との同盟の方を模索していた可能性は、あるようである。なお、この悲劇があった翌年の二月、徳姫は家康に見送られ、岡崎を出立した。 この時、二人の娘達の熊と久仁は、家康の下に残していった。 尾張に戻った後、徳姫は初めは同母兄の信忠の許で暮らしていたが、天正十年に父の信長と兄の信忠の二人とも死去してしまったため、次兄の信雄に保護されるようになった。

一五九〇年に兄の信雄が、豊臣秀吉により改易される。 徳姫は、尾張の小折に移住。1636年の一月十日に、徳姫は京都で死去する。

法名は見星院。墓所は、総見院。

 

 

 

 

 

 家康により、この二人の信康の娘達はそれぞれ、徳川家重臣の、小笠原秀政、本多忠政の下へと縁付けられた。

それからこれもふと思ったが、築山殿と徳姫は、これまでどちらもなかなか強烈な女性とされてきており、彼女達の不和が、間接的に彼女達にとっては息子であり、夫である信康を死に追いやってしまうことに影響したと見られてきたのに、悪女としてなぜか専ら批判されやすいのは、主に築山殿のような気がする。 これは一体どうしてだろうか?

私が思うに、築山殿の数々の悪妻エピソードが、流布している事も大きいのであろうが、やはりそれ程築山殿に比べて徳姫の方が批判されずらいのは、彼女の父織田信長の威光も、大きいのではないか?

築山殿に比べて徳姫は、すでに信長の娘という点で、かなり恵まれている部分があるのではないだろうか。

衆知の通り、世間には大変に信長びいきが多いし。

一方、築山殿は、まずその出身からして不利である。

今川氏及び今川義元も、昔よりはずいぶん復権が進んできてはいるのだろうが、相変わらず、いまいち人気がない印象があるし。

そして築山殿も、こうした出身家系の不人気によっても、大いに割を食っている部分も、あるのではないだろうか?

また彼女を徳川の女性として捉えてみても、微妙なポジションになってしまう人物のように思えるし。