悦窓
悦窓は児島備中守の娘で、最初は本田惣左衛門に嫁いだ。その後、九州の国大名島津貴久の三男島津歳久と再婚。
夫婦には娘一人が生まれたのみだったため、出水島津義虎の二男の忠隣を婿養子に迎えた。
当時の島津家は、島津義久・義弘・歳久・家久の四兄弟の下、勢力を広げ、九州全土を掌握するまでになっていた。しかし、全国統一を目指す秀吉が、これを許すはずはなく、天正十五年に、島津討伐の軍を起こした。
島津家では、自分達が槍で切り取った九州だと言って、秀吉との戦いを主張する長兄の義久と次兄の義弘に対し、弟の歳久だけは現在の宮崎、熊本両県の南半分と鹿児島県を島津の領土とするという、秀吉の朱印状を受け入れた方が良いとの態度を取ったという。しかし、結局彼は兄達の強硬論に従う事になった。秀吉の二十万の軍勢が日向、肥後両方のルートから南進した。
これを迎え撃つ島津軍は、わずか二万に過ぎなかった。そしてこの戦いで、歳久の娘婿だった忠隣が日向根城坂での島津軍敗北の際に、十九歳で戦死してしまった。
この年には、歳久夫妻にとっては孫の、忠隣にとっては息子の、袈裟菊丸が生まれたばかりだった。
秀吉の大軍に敗れた国主島津義久は、剃髪して川内に布陣した秀吉に降伏した。だが、秀吉に対して最も兄弟達の中で柔軟な姿勢を見せていた歳久は、この若い娘婿の死で秀吉に対する態度は硬化する。義久の降伏で、今回の島津の罪を許し、島津の旧領を安堵して帰途についた一行の道案内に立った歳久の家臣は、わざと彼ら一向に険しい道を選び歩かせ、更に秀吉の駕籠に矢を射かけ、暗殺まで企んだ。秀吉はこの事で歳久にずっと恨みを持ち続け、天正二十年の朝鮮出兵に病気のために、出陣しなかった事を責め、ついに秀吉は義久に対し、歳久殺害を命令したのである。虎居城から鹿児島に来た歳久は、七月十八日に、島津家を守るために、涙ながらに差し向けた兄義久の軍勢に、陸だけではなく海からも包囲され、竜ヶ水で激闘の末に歳久は自害し、二十七人の家臣も戦死した。
そしてここに、新たに妻悦窓夫人の、孫袈裟菊丸の家督相続を巡る戦いが始まった。
彼女は鹿児島に旅立つ夫が、二度と生きて戻る事はないのを知っていた。彼女の夫の歳久は、もし六歳の孫袈裟菊丸が、秀吉にも義久にも認知され、歳久の家督を継ぐ事が許されるのなら、自分は島津家本家存続のため、死ぬ覚悟をしていた。そしてこの夫の信念を受け継いだ悦窓は、城を明け渡せとの義久の要求を、断固はねつけた。そして城中の家臣達に臨戦態勢に入る事を宣言し、ついに籠城の構えを取る。未亡人となったこの義妹の強硬姿勢に、義久は驚き、宮之城の大窓寺の住職に宛てた手紙の中で、「宮之城へ盾籠りし事、天道の恐れを知らず、君臣の法に相背く者か。」と、島津歳久正室悦窓への怒りをあらわにしている。しかし、これにも彼女は動じる事なく、 下城を促す義久の使者に抵抗した。これには義久も、動揺を表わす。
当時、この処置を見守るべく、秀吉から派遣された細川幽斎が来ていた。もし事態の収拾に失敗すれば、島津家の行方にも影響する。一方、悦窓はしたたかに義久の足元を見て、袈裟菊丸に少しでも有利な条件で、家督を保障させ、開城に持ち込みたいと考えていた。歳久の死と悦窓の籠城から約八日後、ついに義久は妥協し、悦窓とその娘と袈裟菊丸の三人、そして家臣達の安泰を約束する起請文を出し、幽斎も同様の起請文をしたためた。
しかし、悦窓はなおも首を振らず、しぶとく抵抗を続ける。だが悦窓は度を越せば、島津家だけではなく、袈裟菊丸にも良くないと、夫の死後、ついにほぼ一ヶ月の籠城の後、歳久の母の実家であるため入来院氏の入来城に入る。
この時、堪忍料として三百石を袈裟菊丸はもらう。しかし、そこは余りにも少ない所領であり、しかも荒れ地だった。
このため悦窓はその後もあきらめず、加増を島津本家に求め、朝鮮に渡った義弘らにも手紙で訴えた。
そして彼女の、この粘り強い運動が功を奏し、四年後の文禄五年に、日置に三千六百石をもらった。
その後悦窓は娘を入来院重時と再婚させ、自分は孫の袈裟菊丸と日置に行った。袈裟菊丸はやがて島津常久を名乗り、叔父の家久達から信任され、日置島津家を創設した。
ちなみに戦国時代の後家とは、現在のような気の毒な女性という扱いではなく、女主人・女城主という強い、むしろ実力者の立場であり、この実に四年もの粘りを見せた悦窓も、当時の後家の女性の、本領発揮という感じですね。
亀寿
島津義弘の「知行充行状」によると、亀寿は幼少から京都に住んだ。
そして天正十七年に、島津久保と結婚。
しかし、結婚後わずか四年で、文禄二年、久保は、朝鮮の戦いで死去。その後亀寿は、島津家久と再婚。
そして再婚後、再度、京に帰還し、慶長四年(一五九九)になってからも、長く京都に住んでいた。
秀吉政権は聚楽第の周りに大名を集結させており、天正十五年に島津氏が秀吉軍の羽柴秀長に敗れて以降、聚楽第と大名屋敷が取り壊される文禄四年までは、亀寿は島津氏の人質として京都で過ごしていたと思われる。
亀寿は慶長四年に薩摩国日置郡内の五千石の地を、義父の義弘から、翌年には大隅国内大ね村二千三百七十九石を、父の義久から与えられた。おそらく、大ね寝村の知行地は、かつて父義久が秀吉から文禄四年に安堵された蔵入分十万石の内、「ねしめ村」一万千六百二十五石余りの内の二千七百三十九石を分け与えられたものだと思われる。これらの所領は亀寿の「御苦労」に対して与えられたものである。そのため「無役」つまり島津氏に対して税を納める必要のない所という、特権が付けられていた。
ちなみに、この一五九九年の前年には、秀吉が亡くなっている。
そして、徳川家康に不審を抱き、一五九九年に秀吉の遺命に従わないと詰問した、五大老の一人の、前田利家
も、すでに亡くなった。そして一六〇〇年には、関ヶ原の合戦で東軍が勝利している。つまりこれまで島津氏を押さえつけていた秀吉の首枷が解けた年である。
このように、一五九八年と一五九九年は、大きな時代の変わり且だった。秀吉時代に、各大名の妻子は京都に置いておく事を秀吉は命令しており、これまでの経緯から、恭順の姿勢を特に示す必要があった島津氏の人質として苦労し、聚楽第がなくなった後も、引き続き京都で島津家の安泰のために情報をもたらしたり、島津氏と徳川氏の微妙な関係の折衝に協力したのが、亀寿だったのだろう。
そのような苦労と功績を島津の当主と前当主が評価したのが、おそらくこの所領譲渡である。更に亀寿はこの後の寛永元年、一万石を亀寿一代の間に、「無役」として与えられている。
長年の間、京都で人質として、豊臣と島津、そして徳川との間の折衝の役割を果たした亀寿は、寛永七年の十月五日に死去。
帖佐屋地
天文二十三年(1554)年―寛永十三年(1636)。
島津義弘長女。北郷相久正室 島津朝久後妻。
島津義弘の長女。 当主島津家久の姉。
初め、これも島津一族の本郷相久と結婚した。
しかし、原因は不明だが、天正七年に、父時久と息子でお屋地の夫の相久の仲が険悪となり、廃嫡され、弟の忠虎が後継者になった。
妻のお屋地は相久は発狂したと知らされただけで、強引に離縁させられた。 そして相久の金石城には兵が差し向けられ、殺害されてしまった。 この後お屋地は、父の義弘の許へと戻った。
そして義弘は、お屋地を豊州島津氏の、島津朝久に嫁がせた。
朝久に嫁いだ後の彼女は、慶長元年に、当時朝鮮に出兵中だった彼に書状を送り、日本の大地震や京都の情勢などについて知らせている。 彼女も島津氏からの豊臣政権に対する人質として、京都に住まわされていた。 そしてその役割を謹めながら、京都の情勢を島津氏に知らせる役割も、果たしていたと考えられる。
しかし、この朝久も文禄二年に、出兵先の朝鮮で死去してしまった。 長女長寿院を、生んだ年だった。
この間に、夫婦には他に長男藤二郎久賀、島津忠倍正室の長女が生まれていた。 天文二十三年(1554)年―寛永十三年(1636)。
次女の長寿院はやがて慶長十年に、徳川家康の異父弟松平定行に嫁いだ。 しかし、比較的若くして、母と同じく京都で人質生活を送ったまま、亡くなってしまったようであり、遺児達は祖母のお屋地が養育する事になった。 とはいえ、母のお屋地は同じ島津氏の女性でいとこの亀寿の例を引き合いに出し、この間自分の娘も島津氏のために、懸命に京都で奉公したとして、正当な評価を要求した。
つまり、然べき知行を与えて欲しいという事である。
彼女の次女の長寿院が嫁いだ松平定行との婚儀は、家康の命によるものである。 また「寛政重修諸家譜」によると、家康の側室の阿茶局と侍女達数十人に、執り行わせたとあり、まさに徳川家の肝入りで、松平家と島津家との和平協定として、この婚姻は行われたのであった。
それまで長寿院の奉公に対しては、一千石が下されただけだった。 お屋地は寛永十三年に、八十三歳の長寿で死去した。
彼女が帳佐屋地と呼ばれたのは、大隈国姶良郡帖佐(現在の鹿児島県姶良郡姶良町)の、義弘館を屋地と呼んでおり、そこに住んでいたため、「お屋地様」と呼ばれたのである。