河毛駅に朝到着。しかし、やはり山城跡があるだけあって、かなり田舎の駅でした。改札もなかったし。
本当に、近くにコンビニとかも、全然なかったんですよ。
どこまでも、見渡す限り、一面の田んぼが続いていました。
ここが、かつては城下町だったんですね。
その後、「河毛駅コミュニティハウス」で、いろいろな販売物を、見て回りました。基本的に、大河ブームが巻き起こり、それ程戦国時代に興味がない人達まで、大勢どっと関連史跡に押し寄せても、三年も経てばどこもかしこも、元通りガラガラになるそうで、平日とかいうことも、あるのかもしれませんが、やはりこちらに来ていたのも、ほんの数人でした。
それから、私は現在流行のゆるキャラは苦手な方なので、ゆるキャラ化された三姉妹関連グッズは、購入せず。
なので、主に歴史関連の書籍類を、見て回りました。
やはり、畑裕子さんの「近江戦国の女たち」も、置いてありました。
これら書籍類は、駅に戻ってから購入することにしました。
(しかし、私は基本いつも貧乏旅行みたいな感じなので、小谷城跡から河毛駅に帰還後、結局、通信販売でも購入できると思われる、書籍類は、価格が高めなので、購入を断念(涙)。
かさばりそうだから、というのもありますが。そして代わりにこちらの地域情報誌で価格が安めの「長浜み~な」の、浅井三姉妹を扱った号を、買ってみました。)その後、こはくちょうバスが来たので、いよいよ、小谷城跡近くの「小谷城戦国歴史資料館」まで、乗せてもらいました。
しかし、後でこちらの登り口の方に降ろしてもらったことを、死ぬ程後悔することに・・・
小谷城戦国歴史資料館の脇の方の道の「大手道」の標識案内に従い、そのまま林の中の道を、ずんずん進んでいきます。
しかし、この道は砂利が多い急勾配が続き、これがきついの何の。
その内に、やっと間柄峠、そして金吾丸へと到着しました。
しかし、金吾丸からがかなり長い。
ついに、望笙峠に到着。文字通り、ここから竹生島を望むことができるという意味です。確かに、遠くの方に竹生島らしきものが、見えたような。私の写真ではわかりにくいですが、正面の一番奥に見えている山は、山本山でその一つ前に見えている山が、丁野山と中島山です。丁野は浅井氏発祥の地だとか。
私の望笙峠を撮ったこの写真では、山本山より、もう少し右側の奥の方に竹生島があることになります。
大変、景色の見晴らしも良くなり、すでにかなり高い所まで登ってきたのがわかります。
しかし、特にこの望笙峠になってきてからですかね、砂利が多い坂が続きとにかく歩きずらいし、なかなか平坦な一息つけるような所もなく、この望笙峠に着いてから、やっと開けた平坦で休憩するベンチも置いてある、休憩場所に辿り着けたという感じです。
しかし、思わず途中で泣きそうな気持ちになりました、あまりに道を登るのが辛くて。
何回も望笙峠の方に、迷って戻ってきてしまったりもしたし。もう「番所跡」にやっと到着した辺りから、精も根も尽き果てようとしているような感じでした。しかし、「番所跡」が見えてきたということで、何とか気力を奮い起こして「御茶屋跡」・「御馬屋跡」・「馬洗池」までは進みました。しかし、もう私の体力が限界という感じになっており、また今後の旅行日程などの、時間的なことなども気になったこともあり、何とか「本丸」くらいまでには辿り着きたいと思っていたのですが、ここまでで登山を断念しました。そういえば、写真にもある通り、この時馬洗池は涸れており、そこは残念でした。そして帰り道にはなぜかもう一つの登り口の「小谷城跡」の方に出てしまいました。
更に私は「小谷城戦国歴史資料館」の方にも、帰りに立ち寄りたかったのですが、これも時間的なこととやはり私の体力がもう限界に達していたことから、行くのをあきらめて、そのまま河毛駅に向かうことにしました。しかし、何か、下記に掲載している写真の小谷城跡石碑の据えられていた「小谷城跡」の道を振り返ってみると、もうすぐそこに見覚えのあるあの木の階段があり、すぐここから先が「中丸」や「本丸」などの表記が、出ているではないですか!! 何だ、こっちから行った方が楽で、
しかも割とすぐに「本丸」に辿り着けそうだったんじゃ、とショックと脱力感に襲われました。私は何か結果的に大変な方の道を、わざわざ選んでしまっていたようです。
事前に、ネットでいろいろと登山ルートについては、調べていたはずだったのですが。しかし、選ぶ道のルートによって、微妙に見られる場所にも、違いがあるようだし、またこの「小谷城跡」の登山ルートの方が、楽な方とはいっても、比較的ということなんだろうし、まあ、やはり、わたしが見たいと思った場所は、こちらの「追手道」の登山ルートの方に多くあったので、まあいいかと思うことにしました。
本当に「登山」と言った方が、実態に近いと思います。
やはり、運動靴を履いてきて正解でした。
正直な感想としては、本当によくこんな所に城を建てて住んでいたなとか、ありきたりの感想になってしまう感じですが、本当にあの時代の人々は、現代人とは根本的に、身体の鍛え方が違うなということです。重い甲冑を着て、攻撃したり、迎撃したりしていたんですからね。逆に言えば、これだけ攻めるのには困難ということで、住む方にとっては、安心できる居城の山城ということでもあったのかもしれませんが。
登山後には、太ももがすでに激しい筋肉痛に見舞われてしまいました。砂利の多い坂道の途中で、特にこの太ももに力を入れてなるべく両足に均等に体重をかけるようにして、バランスを取りながら、慎重に歩いていくことを、心がけたので。一応、登山時間は大目にとっていたはずなんですが、何やかんやで、結局約三時間も費やすことになってしまいました。小谷城跡はかなりきついというのは、すでに耳にしてはいて、ある程度登山の辛さは覚悟していたはずなんですが、私は以前に、伏見稲荷にも登ったことあるけど、思った程辛くは感じなかったしなど、この山城を、なめていましたという感じでした。
そういえば、改めて気がついたという感じだったのですが、この小谷城跡って「日本五大山城」の一つに、数えられていた城跡でした。
それから私が購入した「長浜み~な」の号の中に、福田千鶴先生の「淀さまとの夢問答」というのがありましたが、なかなか面白い話でした。実際に、淀殿が真摯かつ熱心に、彼女の実像を追求し続ける福田先生を自分の真の理解者と見込んで、夢の中で示唆を与えてくれたのか、それとも、何か福田先生の直感というか、内なる叡智のようなものが、突如働いたものかはわかりませんが。
これまでは、当時淀殿の自筆書状で使われていたと思われる、「ちゃちゃ」か「おちゃちゃ」という署名での、淀殿自身の名前での自筆書状は存在しないと考えられており、一時は先生もとてもそうは思えないけれど、淀殿は字が書けなかったのか?と、彼女の自筆書状の謎について思いを巡らせていた時期の事。
ある日、夢の中で淀殿と思われる女性の声が聞こえてきて、それはあこではなくて、よどと読むのですよと教えてくれた話が。
そして実際に、くずし字で書かれた「あこ」と「よど」という字は、よく似ているそうです。この夢の淀殿の言葉で、それに気づかされたとか。
でも、確かに戦国女性達の書状などにも見られる名前が、同じ呼び名で統一されているとは限らず、複数の名前が使われていることも、少なくありません。だから、その点から考えても、私としては十分、これまでは淀殿の大上臈の「あこ」が淀殿に代わって代筆してきたとされた書状が、「よど」という、淀殿自身の自筆署名で書かれていた可能性も、かなりあり得るのではないか?と思うのですが。