流星 お市の方 永井路子 文芸春秋
それまではただただ悲運に流され続ける、薄幸の美女イメージが強かったお市の方を、初めてそれまでとは異なる、強い意志を持った女性として描き出した作品。
確かにそれまでとは違うお市の方を描こうとする意欲は、感じるのですが。しかし、すでに書いている通り、お市及び信長との兄妹関係に関する作者の見解には、個人的にはいろいろと疑問を感じる部分もあり。お市はとにかく何よりも、最後まで織田家の女性という意識を持ち続け、常に信長、そして織田家にとってどうすればよいかという観点で、行動し続けた女性ということになっています。
そのため、他作品程、浅井長政と仲良し夫婦という感じでもなく、どこか距離感があるような感じの描かれ方でした。
そして他に印象に残った点としては、この話の中ではとにかくお市が柴田勝家のことを気の利かぬ、鈍感な男として嫌っているという点です。個人的には、え?本当に勝家って、そんな人物だったのかな?
そしてお市も本当に、そんな風に思っていたのかな?と思いましたが。
それにこれって、要するに作者自身が秀吉の方を、勝家より遥かに高く評価しているから、こういう描かれ方になってしまっているのでは?と感じない所もないでもなく。
朱なる十字架 永井路子 文芸春秋
細川ガラシャを取り上げた小説では初めてかつ、代表的作品。
一豊の妻 永井路子 文芸春秋
徳川家康の側室のお梶の方、お江の侍女、家康の孫娘の熊姫、そして大村喜前の娘で、有馬直純の最初の正室だった、大村マルタを取り上げている内容。個人的には、やはり小説に限らず、まず書籍全般でもなかなかその名前を見かけることがない、キリシタンであることから離婚された、有馬直純の謎の前妻である、大村マルタを珍しく主人公として取り上げている「お菊さま」が一番面白かったです。
細川ガラシャ夫人 三浦綾子 新潮社
これも細川ガラシャを取り上げた小説では、代表的な作品。
そしてその売りの一つとしては、彼女と同じキリスト教徒である三浦綾子の視点から描かれている点でしょう。
やはり、同じガラシャを扱った作品でも、その人物像にはそれぞれ違いがある感じです。この三浦綾子の描くガラシャは、気高くかつ繊細な面も併せ持つ女性として、描かれている感じです。
それから確かにどちらの作品のガラシャも、それぞれ違う魅力がありますが。ただこれは全く私個人の好みですが、三浦綾子作品のガラシャには、やや近寄りがたいような印象も覚えます。
純粋で可憐で親しみやすい感じの、永井路子のガラシャの方が、私はより好きかなという感じです。
ガラシャ 宮木あや子 新潮社
築山殿無残 阿井景子 講談社
築山殿の悪女説に、疑問を呈する内容の小説。
築山殿がしたと記されている、数々の悪事も歪曲か虚構としています。
全体的に、薄幸な貴婦人という感じの描かれ方だと思います。
月を吐く 諸田玲子 講談社
これも基本的には築山殿悪女説に、疑問を呈する内容です。
それにわがままな部分がありつつも、彼女なりに最初は家康を愛そうとしたりしているし、更に一見勝気なようでいて、実は繊細な面もある女性になっており、どこか憎めないような女性として描かれています。
ただ、仕組まれた陰謀によるものとはいえ、彼女と唐人医師減敬との密通は、あったことになっています。
また他には松平広親という、彼女を見守り、幼い頃から愛し続けるこの架空の男性とのロマンスが、大きな特徴です。
阿井景子の作品の方に比べると、救いがある内容になっています。
濃姫孤愁 阿井景子 講談社
珍しく、信長との不仲説及び彼女の早死説を採っている内容。
ただ、斎藤道三の死後に、濃姫が母方の実家の明智家に戻り、更にそこで斎藤義龍に攻められて自害、というのは、私としては疑問を覚える解釈でしたが。
駒姫 三条河原異聞
武内涼 新潮社
初めてこの作品の存在を知った時は、まさか、あの駒姫を主人公にした小説があったなんて、という感じでした。
てっきり、これも歴史小説にはよくある、死んだとされていた人物が、替え玉などのおかげで、実は秘かに生き延びていたという結末にでも、してあるのかと思っていたのですが。
しかし、駒姫の刑死という史実自体は、変えていなかったのが、予想外でした。この中の駒姫は、あくまで気高い心を持った姫として、描かれています。また駒姫と献身的な侍女のおこちゃとの深い主従の絆、そして何としても駒姫を助けようと奔走する、最上家の人々の姿が心を打ちます。
ただ、特に淀殿が相変わらずの人物造形であるのが、不満が残りました。他にも例えば竜子との確執の描写も、相変わらずという感じだし。
他にも、駒姫を中心とした、最上家の人々の心映えの素晴らしさを際立たせて描きたいあまりか、冷酷で残虐極まりない秀吉と並んで、淀殿が愚かで哀れで醜い存在のように、対比的にかなり否定的に描かれている印象も、否めません。
また、作者がなぜかいまだに、淀殿ではなく、「淀君」という呼称を用いていることにも、違和感が。
既に多くの研究者から、これは江戸時代から、淀殿を蔑んで用いられている意味合いの強い呼称なので、不適切であり、改めるべきという主張が強くなってきているというのに。
しかし、この作者は敢えて何でまだ、淀殿に関して、この古い呼称を使い続けるのか?この点にも、疑問が残りました。
そしてそんなに大絶賛される程の作品かな?という疑問も、このようにちょっと個人的には残る感じ。
とはいえ、これまで本格的に取り上げられたことのない、この駒姫主人公の小説という点では、貴重ではあるかと思います。