永禄元年(1558)―天正八年(1580)。

波多野秀治の妹とも娘ともされる。

播磨国の三木城主別所長治の正室。

 

 

照子は十代後半頃に、別所長治に嫁いだと考えられ、毎年一人ずつ、合計四人の子供が生まれている、夫婦仲の良さだった。

また、彼らの菩提寺の三木市の法界寺に伝わる、おそらく二人の追慕像だと思われる、二人の容姿をそのまま信じるなら、切れ長の涼しげな目元に端正な顔立ちの夫長治とこれも楚々とした風情の照子は、美男美女の、まさに似合いの夫婦だったようだ。

(ただ、照子の方の絵ですが、どうも通常の戦国女性の追慕像の形式のように、背景はシンプルな金色などの単色ではなく、彼女の背景の屏風が具体的に描きこまれている所。また彼女の打掛の模様が、どうも、あまり安土桃山時代の衣装らしくない感じなのが、気になりますが。この絵はいつ頃描かれたものなのでしょうか?まだ彼らの面影を知っている人物がいた時に、描かれたものなのでしょうか?)

 

 

別所氏は、播磨の名門赤松氏の分れであった。十六歳の時に父安治が死去し、それ以降長治は叔父の別所吉親と重棟の後見を受けていた。

このように、似合いの好一対であり、多くの子にも恵まれ幸せに暮らしていたと思われる照子だが、やがて別所氏が信長の信頼厚い家臣として、実力者として勢力を拡大していた秀吉に敵対するようになった事から、この夫妻の運命の暗転が始まる。

 

 

初め別所氏は信長側に味方していた。

天正五年、毛利氏攻略を信長から命じられた秀吉を、長治は吉親らに命じ、加古川に出迎えさせる。しかし、この時の秀吉の態度が余りにも横柄だった事や、天正六年になってから、本願寺攻めに信長が手間取っている様子などから、一度は対毛利戦の先導役を務めようとした、所氏の意思を変えさせる結果となった。

毛利方に寝返る事にした別所氏は離反を隠し、油断させ、三木城を拡大し、籠城し百三十の支城を整備して、ゲリラ戦で秀吉を悩ませた。

緒戦では秀吉は敗れたものの、すぐに態勢を立て直すと、三木城攻略に取り掛かる。

そして信長の援軍を加えた総勢三万の軍勢で、次々と支城を陥落させていった。

 

 

兵糧攻めに苦しめられた別所側は、ついに降伏を決意し、別所長治から持ちかけた条件として、籠城の兵士・女性・民衆達は助けるとの条件で、城主一家は次々と自害する事になった。

別所側の、十二ヶ月の籠城戦を、敵ながらあっぱれとした秀吉は、食料が尽きた城内に、十六日、酒と肴を贈った。その夜、別所一族や家臣達は秀吉からの差し入れで、別れの宴を開いた。

そして一月十七日の夜明け、一族の死出の旅路が始まった。照子は髪を洗い、香をたき、白の小袖に練りの一単の絹衣という衣装に改めた。

 

 

更にその上、自分の四人の子供達にも白い小袖を着させ、先祖伝来の具足など家宝が並ぶ三十畳の大広間に、の長治と正座した。

まず、別所長治の叔父吉親の正室の波が、敵が侵入して自害の場に踏み込まれないように、武具を付け、矢をつがえて中門口を見張り、自決の時刻がやって来ると、部屋に戻り、白装束の死装束に着替えた。そして、まず自分が手本を見せるといい、自分の手で三人の子供の命を奪うと、その後自分も自害した。その後、長治の弟別友之の正室も自害し、ついに照子の番がやってきた。

なお、当時十七歳であったこの山名和泉守豊恒の娘は、初めはなかなか自害できないでいた。しかし、そんな義妹を見た照子は、「武将の妻として恥ずかしくはござらぬか。一緒に三途の川を渡るのです。余りの嘆きは、末代までの恥となりましょう。」と心を鬼にして、叱咤した。そしてこの義姉の言葉に励まされ、この女性は自害したという。

 

 

長女で五歳の竹姫、二女で四歳の虎姫、嫡子で三歳の千代丸、二男竹松丸二歳の子供達を次々と引き寄せ、子供達の命を心を鬼にして、自らの手で奪っていった。自分で泣く泣く我が子達を手にかけねばならない、照子の母としての無念さは深かった。

その後、長治は三人の女性と七人の子供達の遺体を庭に下ろさせ、蔀、遣戸を打ち砕き、遺体を覆い火を放った。

そしてその後、長治も自害し、その首は安土城の信長の許へと送られた。