三条夫人

大永元年(一五二一)―元亀元年(一五七〇)。

武田信玄正室。武田義信、信親、信之、黄梅院(北条氏政正室)、見性院(穴山信君正室)母。

大永元年に、現在の京都の上京区の梨木神社があった辺りの、三条通り添いの転法輪三条邸で誕生。

大政大臣転法輪三条公頼の次女。

当時父の公頼は、権中納言であった。

姉は管領細川晴元の正室。他には、三条夫人との間にかなりの年齢差があることから、おそらく異母妹であると考えられるが、本願寺の門主顕如に嫁いだ如春尼がいる。

天文五年の七月に、はるばる甲斐国へと嫁いでいった。

武田信玄と三条夫人の結婚の背景には、武田信虎の勢いを利用したい朝廷や公家など、様々な人々の思惑が働いていたことが想像される。これまでも指摘されている通り、すでに駿河の今川氏親の正室になっている寿桂尼の仲介によって、成立した部分も大きいようである。 武田家は武田家で、すでに公家の姫君を迎えている他の大名家のように、自家の格を上げる目的もあったであろうが、やはり、京都との繋がりを作るためだろう。

 

 

 

これまで三条夫人というと、さんざん、主に歴史小説やドラマなどを通じて、清華七家の一つである名門公家の家柄を鼻にかけた驕り高ぶる女性という、否定的なイメージばかりが流され続けてきた。

しかし、三条夫人が武田信玄の許に嫁いできてから、重度のホームシックに取りつかれ、ひたすら山国に嫁がされた己の不幸を嘆き、不満ばかりを並べ立て、夫や武田家やそこでの暮らしを侮蔑していたかのように、まことしやかな描写ばかりがされてきたが。

だが実際には、一切そのようなことが書かれている、同時代の具体的史料及び具体的な事実らしきものは、見当たらない。

また、側室達に強い嫉妬心を示したという、これもお馴染みの逸話も、同様である。要するに、三条夫人のこれまで言われてきた人物像は、実際にはその大部分は、当てにならない憶測で成り立っているものであることがわかる。 しかし、三条夫人にまつわるこういった話が、ほとんど史料的・具体的根拠がないものであるにも関わらず、三条夫人のその人物像について、非常な長きに渡り、専らこうした否定的な見方ばかりがされてきた理由についておそらだが。

おそらく、人々の武田信玄びいきの余り、三条夫人については、往々にして、大変不公平な見方に陥っている部分が大きいと思う。

 

 

 

また自分の父を殺害されているという点では、三条夫人も諏訪御料人と同じ体験をしているというのに、この当時の彼の滞在先である、周防の大内義隆の築山館で三条公頼が巻き込まれた惨劇については、いずれの本でも、ずっと無視されてきた。

三条夫人の父が巻き込まれたこの事件についていまだに取り上げているのは、上野晴朗氏の著作の三条夫人の伝記くらいではないだろうか?このように、父の諏訪頼重を信玄によって滅ぼされたとして、何かと諏訪御料人の悲劇ばかりが強調される傾向などもそうだろう。

そして三条夫人や諏訪御料人について語られる時は、常にやはり、数多くの歴史小説やドラマなどでの彼女達の描かれ方や扱いの強い影響が、そこかしこに見え隠れしている。

上野晴朗氏の労作「信玄の妻 円光院三条夫人 新人物往来社」によると、転法輪三条家は信仰心篤い家風であり、当然その家の娘として、三条夫人も生涯仏への信仰が深かったという。

そして現在では、東京のある好事家の所有になってしまってはいるものの、かつて彼女の菩提寺の円光院には、武田家に嫁ぐ時に持参してきたという、彼女の守り本尊であったとされる、釈迦如来像が納められていたという。

 

 

 

また、信玄が甲府を襲った台風で破損してしまった、大善寺の修復費用を募るために天文十九年の三月に催した、大々的な薬師供養祭りには、三条夫人も武田一族の一人として、信玄や義母の大井夫人や信玄の弟達と共に、列席していた記録が残っている。

彼らも武田一族として率先してこの時に寄付をしていたようであり、武田信玄からは太刀一振りと馬が、大井夫人と三条夫人からは、それぞれ百疋が寄付されている。そしてその後には、信玄の弟達の武田信繁、武田信廉、そして武田信是からは、やはり太刀一振りがそれぞれ寄付されている。なおこの記録が残されているのは、大善寺に残る当時の奉加帳であり、各自の直筆で彼らの寄付記録が署名されているようである。祭りとはいえ、こうして武田家一族が勢揃いして名を連ねているのであるから、これも公式行事の一環である。

そして三条夫人もこうして信玄正室としての義務の一つを、果たしている。一切武田家に馴染む努力もしようとせずに、日々の憤懣ばかりを侍女達と喋るだけの三条夫人の生活という、これも絶えずフィクションなどを通じて広められ続けてきた、これまでの一方的な憶測に、説得力を失わせる記録だろう。小説やドラマなどでの三条夫人だと、「そんな鄙びた田舎の祭りになど、誰が出るか!」とか言い出しそうな気配であるが。

 

 

 

引き続き、この史実の方の三条夫人であるが、この大善寺の記録の他には、甲府内の各寺に寄進をしていた形跡も、認められる。

そして珍しく、葬儀時に各禅僧達が生前の彼女について述べた、貴重な当時の追悼文も菩提寺の円光院に残されている。

これらの史料などを総合して、おそらく、例えば甲府五山の設立に当たっては、表の記録には残ってはいないものの、彼女の出自や信仰心を通して、並々ならない、多大な貢献があったのだろうと想像されるという。京都方面の妙心寺派の禅僧達が、国主信玄の招きにより、多数甲府内の寺にやってきている。

そしてこの甲府五山も、おそらく京都五山を参考にして設立されたものだと考えられる。やはり、この方面については、信仰心の強い女性かつ京都の公家の出である三条夫人の、何らかの関与があったと考えるのが自然だと思われる。 また、天文七年の八月に、歌道を家業としていた冷泉為和が甲府に下向したのを皮切りに、以降も、天文十三年の九月十七日の歌会、そして天文十六年七月十六日の甲府積翠寺での和漢連句の会にも参加している三条西実澄、四辻季遠。

そして天文十六年の七月二十七日には、正親町三条公兄の下向が相次いでいる。

 

 

 

これは三条夫人が京の姫であることから、起こったことだろう。

そしてこうしたことは、甲府への京文化の流入にも、大いに役立っていたはずである。また、これは研究者や永井路子なども指摘しているが、諸国を渡り歩く連歌師や他国に下向する公家などは、情報通でもあり、他国の情報収集にも彼らの存在は、役立っていたのである。

そしてその生前の人柄はというと、むしろ、一方的に流され続けてきた、これまでの悪女イメージとは正反対の印象である。

春のように、のどかで温かな印象の女性であり、信玄とも不仲所か大変に円満な夫婦であったという。

そして、常に夫の意向に従って行動し、信仰心でも心を一つにし、また夫や甲府の民衆達のために、国主夫人として努力していたという。また諏訪御料人の美人話と比べるとこれも無視されがちであるが、三条夫人も美人であったようである。

 

 

 

更に嫉妬深い所か、これも快川和尚の言葉によると、特に三条夫人の仏教への造詣の深さは、武田家でも衆知のことになっていたようである。そしておそらく仏事に関しての相談だと思われるが、武田家の女性達からよくそれらに関して相談を受けることもあったようであり、彼女達のそうした相談にも、三条夫人は快く乗ってやっていたという。

このため、武田家の女性達が住む一角であるお裏方には、平和的な空気で満ちていたという。

 

 

 

このように、三条夫人が名門の公家の家柄を鼻にかけ、夫を見下していたとか、他の妻達に、特に諏訪御料人について強烈な嫉妬心を抱いていたなどの、小説やドラマなどでのお決まりの三条夫人の描写であるが、これらに一切史料的根拠はない。

また、義信の三管領など、信玄の中央政界での様々な政治・軍事行動を起こすに当たっても、姉は管領の細川晴元の夫人、そして妹の如春尼は本願寺の顕如の夫人であるという、その三条夫人の有力な婚姻関係から、有形無形の恩恵があったと考えられる。

特に武田信玄を扱った小説やドラマでの中では、専ら甲信越方面の戦いや情勢の描写ばかりに終始しがちな傾向もあり、これも見逃されがちな点であるが。

天文七年に、長男義信が誕生、天文十年には次男の信親が、天文十二年には長女の黄梅院が、天文十三年には次女の見性院が生まれている。そして天文十九年には義信が元服し、正室に今川義元長女でいとこでもある嶺松院を迎える。

更に天文二十三年には、これも武田・今川・後北条の三国同盟の一つとして、小田原の北条氏康の長男北条氏政に長女の黄梅院が嫁いでいった。おそらく、弘治二年か三年頃に、次女の見性院がご親類衆で重臣穴山信友嫡男である、いとこの穴山信君に嫁いだ。

 

 

そしてこの弘治二年には、嫡男の義信が三管領として準じられる。

こうして武田義信は、武田信玄後継者として、いよいよ重みを増していった。しかし、天文十九年の十二月に、この義信元服という、武田家にとっては大変な慶事であり、喜びの中にあったと思われる三条夫人であるが、実はこの間に、三条夫人に絶望と悲しみを味わわせるような一大惨事が起きてしまう。彼女の父の三条公が当時滞在していた周防の大内義隆の築山館を重臣の陶隆房が襲撃し、巻き添えをくらい、他の公家達同様に殺害されてしまったのである。

彼には息子がいなかったようであり、分家の正親町三条家から養子が入って家を継ぐまで、転法輪三条家は、事実上の断絶の不幸にあっていたらしい。同年の数ヵ月後の、我が子義信の元服は三条夫人にとっては、大きな慰めにはなったであろうが、しばらくはこの非業の死を遂げた父を思い、悲しんでいたのだろう。

これも、前述のように、例によって専ら諏訪御料人の父諏訪頼重の悲劇ばかりが強調され、まずほとんどこの三条夫人の父の不幸は、取り上げられることがないが。

 

 

 

 

しかし、この前述の父三条公頼の殺害や次男の盲目や三男の早世は、彼女に辛いことではあったであろうが、それらを除けば、ここまでは、正室の三条夫人の生活は、順調だったと見てよいのではないだろうか。しかし、「甲陽軍鑑」ぐらいしか、義信事件についての一応の経過のようなものが記されている史料がなく、真相については現在に至るまで様々な憶測が飛び交っている。

しかし、これも以前からよく言われていた、信玄と三条夫人との不仲が影響していたというのにも、これも明らかに家康・築山殿夫妻の投影のようなものが感じられるため、私は賛成しない。

例えば徳川家康夫妻などとは違い、彼らには仏教信仰という共通のものもあるし、甲斐国統治のために、夫婦協力し合っていた形跡が窺えるからだ。 おそらく、何かと境遇がかぶるような気がしないでもない、築山殿辺りと重ねられて、三条夫人の人物像が憶測されたのだろう。

また、このように三条夫人がとかく数多くの小説やドラマなどで悪いイメージで描かれがちな理由についてさえ、改めて考察しようとする姿勢の本さえ、これまで大変に少なかったのですが。

 

 

 

ちなみに上野晴朗氏は「信玄の妻」の中で、三条夫人についての本格的な研究に入って驚いたこととして、「第一にこの研究に入って驚いたことに、特に歴史物を書いた文芸の世界で、三条夫人はことごとく無責任な笞刑をあたえられている点であった」と述べています。

要するに、特に多くの歴史小説の中で、三条夫人について、無責任な批判的な描かれ方ばかりがされていたということでしょう。

そして更に続けて、三条夫人を典型的な悪女、そしてこれに対する側室の諏訪御料人を理想像とする、講談的な型にはまった人物描写としており、私自身の印象からも、総体的には、やはり上野氏のこういった見方が、妥当かと思われます。

またなおも続けて上野氏は、誤解に基づく三条夫人のイメージとして、三条夫人が何かというと、公家の名門の家柄を鼻にかけた、気位高くて冷たく取り澄ました女性であるかのように言いふらされているのは、全て現代の小説中などでの無責任な捏造記事が積み重ねられてきたものであり、取るに足らない噂話に過ぎないと、著作の中で何度も強調しています。

 

 

 

そして楠戸義昭氏は「戦国女系譜」の三条夫人についての章の中で、なぜか三条夫人がいつもいつも、多くのフィクションの中で悪く描かれる理由については、武田勝頼を産んで若死した側室の諏訪御料人を、強調するためだろうとしています。

確かにそういった意図もあるでしょうが、上野氏の見方と大いに関連していると思われますが、やはり徳川家康正室の築山殿と重ねられて人物像が推測されている部分も、大きいと思います。

しかし、なぜ武田信玄正室の三条夫人が悪い扱いばかりをされるのか、改めて考察しようとする姿勢さえも、最初から欠けている書籍も多く、まるで彼女が決まって悪妻・悪女として扱われるのは、当然であるとでもいうような感じの、ほとんど思考停止に陥っているような内容の物も、目立ちます。その点で言えば、このように、「戦国女系譜」の三条夫人についての章の中で、なぜ三条夫人が小説やドラマの中での描写などを中心にして、悪く扱われてばかりなのか、その理由についての考察がわずかに試みられているだけ、こういう姿勢が主流の他の書籍での三条夫人の扱いよりも、大分マシな方かと思われます。

一般的に武田信玄の方の追悼文の内容は、その人物評価に当たって大いに利用しているようであるのに、一方、なぜか菩提寺の円光院にある、正室の三条夫人の方の追悼文の内容は、このように、長い間、まるで無視されていると言っていい状態である。

 

 

 

しかし、三条夫人について語るにあたって、この追悼文の内容について、研究者や歴史作家達などが、ここまで長い間無視して、ほとんど注目しようとしないのは、不可解であり、私が見た所、彼らのそうした姿勢には、特に正当な理由が見当たらないように思うのだが。

やはり、彼らのこうした反応の背景には、三条夫人については、相変わらずの悪女イメージに基づく、出自が良いだけで、武田信玄の正室としては全く役立たずの公家の姫君、側室の諏訪御料人に圧倒された哀れな正室などの偏見や先入観が、何となく、いまだに強く働いているように思えてならない。そして更に、これもこれまで三条夫人が築山殿のような悪妻と思われてきた大きな理由であると思われる、嫡男の義信謀反についても、母である三条夫人の具体的な関与は、窺えない印象である。また彼女についての追悼文などの内容からしても、強硬に信玄の駿河侵攻に反対したり、これも小説などで好まれていた解釈として、ましてや京に帰りたさに、息子に父に対する謀反をそそのかすなど、よけい考えずらいように思う。

確かに彼女が信玄に嫁ぐに際し、今川家との縁もあり、夫の駿河侵攻というのは、心苦しいような展開ではあったのであろうが。

 

 

横山住雄氏の「武田信玄と快川和尚 戎光祥出版」によると、三条夫人の葬儀に列席し、次々と追悼の言葉を述べていた、快川和尚を始めとする禅僧達の数人は、武田信玄と義信の対立時にも、彼らの和解を試みて行動していたようである。

そして彼らは、永禄十年の義信の葬儀にも出席している。

歴史作家などと同じく、以前から三条夫人について偏見を持っている武田氏研究者が多かったと思われる中で、上野晴朗氏は早くから三条夫人悪妻説への疑問を示し、更に現在は位牌さえも失われてしまっている義信だが、彼の肖像画も、初めはきちんと描かれていたのではないか?などの慧眼を示されていたが、東光寺内ではないものの、義信葬儀時の追悼文も残されていることがわかり、その記録から、やはり母の三条夫人の葬儀の時と同じく、追悼のための肖像が、初めは描かれていたようである。これにより、上野氏の見解が、より説得力を増した感じである。

 

 

 

更にこの横山住雄氏の同書の内容によると、三条夫人の葬儀に列席し、次々と追悼の言葉を述べていた、快川和尚を始めとする禅僧達の数人は、武田信玄と義信の対立時にも、彼らの和解を試みて行動していたようである。「甲陽軍鑑」では、永禄五年に彼らの和解の使者として、甲天総寅、北高全祝達の名前しか挙げられていないが、岐阜の南泉寺の快川和尚の書状の中では、彼以下、春国光新、藍田恵青等の、後の三条夫人の葬儀にも出ている、数人の甲府五山の禅僧達の名前も見えるのが興味深い。やはり、これは武田氏研究者も指摘している通り、禅僧達が信玄に対して持っていた影響力の大きさを、物語っているものでもあるだろう。

そして彼らは永禄十年の義信の葬儀にも、出席している。 歴史作家などと同じく、以前から三条夫人について偏見を持っている武田氏研究者が多かったと思われる中で、上野晴朗氏は早くから三条夫人悪妻説への疑問を示している。

更に現在は位牌さえも失われてしまっている義信だが、彼の肖像画も初めはきちんと描かれていたのではないか?などの慧眼を示されていたが。そしてこのように、東光寺内ではないものの、義信葬儀時の追悼文も残されていることがわかり、その記録の内容から母の三条夫人の葬儀の時と同じく、追悼のための義信葬儀時の追悼文も残されていることがわかり、その記録の内容から母の三条夫人の葬儀の時と同じく、追悼のための肖像が、初めは描かれていたようである。

これにより、上野氏の見解が、より説得力を増した感じである。

そしてやはりこれも同書内で紹介されている、岐阜の南泉寺所蔵の、快川和尚の永禄九年の六月の書状の内容の中で注目すべきは、信玄と義信親子が対立していた時期についての証言として、この問題に関しては信玄にも問題があり、もう少し義信の主張にも、彼は耳を傾けるべきだというようなことを述べており、ある程度義信の方の正当性を認める姿勢を示している所である。

 

 

 

 

このように、やはり快川和尚も、この二人の対立は、あくまで中心になっているのは信玄と義信親子の問題であるかのように述べているし、正室の三条夫人の関与がありながら、遠慮して触れていないという感じはしない。なお、三条夫人にとって大変に辛い時期であったと思われる、この頃についての彼女の動向については詳しくはわからないが、何とか事態が無事に収束し、信玄と義信が和解してくれることを、必死で願っていたことだと思われる。

しかし、この時期の三条夫人の行動としてわずかに窺えるものとしては、すでに義信が東光寺に幽閉されていた時期だと思われる永禄九年の十一月に、彼女が甲府の美和神社に、息子義信の赤皮具足を奉納して、何かの祈願をしているらしいことである。 その目的としては、やはり信玄の怒りが解け、義信が幽閉から解放されることであろう。

なお、この信玄と義信対立の原因については、上野晴朗氏ら武田氏研究者の見解としては、信玄の新旧家臣団の抗争や、やはり駿河侵攻についての義信を含めた武田家内部での政策対立など、複合的な理由によるものであろうとの認識に、現在ではなっている。

信玄夫妻が不仲だからというような程度の問題では、ないということだろう。 このように、快川和尚らの和解の試みも実らず、永禄十年の十月、義信は幽閉されたまま、東光寺で死去した。

 

 

 

 

この嫡男義信の廃嫡、そして幽閉の果ての死だけでも、三条夫人にとっては相当な衝撃であったと思われるが、彼女の母としての苦悩と悲しみはなおも続く。 駿河侵攻に反対していた義信一派の起こしたこの謀反事件を処理した信玄は、義信の死からほぼ一年後の永禄十一年の十二月に、ついに駿河を侵攻した。

完全な三国同盟の、一方的な破棄であった。

これに怒った北条氏康は、その報復措置として、信玄の長女で、甲府から北条氏政に嫁ぎ、夫との間に多くの子をもうけて長い間幸せな結婚生活を送っていた黄梅院を息子と離縁させ、甲府に送り返したのである。北条氏康の娘の蔵春院早川殿は、今川氏真の正室になっていた。このような形で、突然に愛する家族達と引き離され、甲府に送り返された黄梅院は間もなく出家。

そして落胆の余り、衰弱し、永禄十二年、六月十七日に、二十七歳で死去してしまった。この長女の死が決定打となったのか、三条夫人も長女黄梅院の死の一年後の、元亀元年に入った辺りくらいから病にかかり、寝込むようになってしまったようである。

元亀元年の四月二十一日に、親戚の正親町三条公兄が甲府に急遽下向しており、おそらくこれは三条夫人の病気見舞いのためだと思われる。しかし、この彼の見舞いから約三ヵ月後の、元亀元年七月二十八日、三条夫人の病状は回復しないまま、死去した。

驚く程、肉親の不幸に遭い続け、長男は廃嫡の末に幽死するという、痛ましい人生であった。

 

 

 

 

三条夫人の人生が、そのように痛ましいものであったことについては、彼女の葬儀の中でも、口々に各僧侶達が追悼の言葉の中で述べている。以下抜粋。「円光院三条夫人は、およそこの世に、聖なることがなきがごとくに、心を痛ましめ、愁いの思いが多い方であられました。 説三」・「いま三条夫人もまた、八月の梅花となって、もはやこの世の人生に脅かされることもなく、来る春を告げるように遥かなる御仏に召し出されてしまわれました。 桂岩」・「この世の人世には、はらばいゆく先に、必ず必ず救いの綱があるものです。 鉄觜」。快川和尚の「その御様子は、常に身一つが薫草のように、梅花の匂いを室内に漂わせている思いがいたしましたや、この桂岩和尚の言葉、そして他には高山和尚の言葉など、口々に三条夫人の雰囲気を形容したものと思われる、共通の表現として、このように「梅」がよく使われているのが、印象深い。 なお円光院には、武田家の家紋入りの三条夫人愛用の二面の鏡や経机の下に敷く敷物用として使われていたという、衣装の切れ端を合わせてつくられた内敷と呼ばれる敷物などの遺品が伝えられている。他には、武田信玄が駒場で息を引き取る前に、馬場美濃守信房に、円光院に納めるように、説三和尚に託したとされる、信玄の陣中守り本である刀八毘沙門と勝軍地蔵がある。

また円光院の岩窪町には、円光院旧門前の上地に武田信玄の古墓と呼ばれる場所がある。安永八年に幕府に申請してここが掘られた時に、石棺が現われ、その蓋には信玄の法名と命日が記されていたという。

 

 

 

ちなみに、淀殿や築山殿の復権は、進んできているというのに、なぜか、ほとんど具体的・文献的根拠もなく、悪女にされるという、一番不当なケースだと思われる、三条夫人だけは、いつまで経っても、本格的に救済される様子がないのかという点についですが。

私はこれはこれまでの彼女のそうした扱いが妥当だからというよりも、三条夫人に関してだけ、依然として続く不公平と捉えた方がよいように思います。どう考えても、道理に合わないですもん。

これだけ、昔の時代に比べて、戦国時代の女性の研究が進んでいるのに、三条夫人の復権だけには、なぜかみな無関心って。

 

 

 

 

 

 

 

諏訪御料人

?―弘治元年(一五五五)。

父は諏訪頼重。武田信玄側室で武田勝頼母。

生年・本名共に不明で、通称諏訪御料人、あるいは諏訪御寮人とも。

井上靖の付けた「由布姫」、または新田次郎の付けた「湖衣姫」などの名で呼ばれることもよくある。

またこの点については、武田氏研究者の上野晴朗氏も、この点について、その著作の中で、井上靖の「風林火山」の中では諏訪御料人が由布姫、後者の新田次郎の「武田信玄」の中では、湖衣姫になっているけれども、これは名前がわからないから、それぞれ文学表現として知恵をしぼったまでで、これが歴史上の固有名詞と思われたら困ると注意を促しています。

ちなみに、この由布姫の方は、かつて井上靖が大分県の由布院温泉の旅館に泊まった時に、そこから思いついて付けた名前と本人自身が言っており、意外に何気なく付けられた名前のようです。

それから新田次郎の「湖衣姫」の方は、おそらく諏訪湖から取って、付けられた名前でしょう。

とにかく、こうした点からも、彼女がやはり初めから、歴史小説の影響を何かと強く受けている人物でもあるということもわかる。

それから、諏訪御料人については、上記の通り、二種類の表記が使われることがあるが、武田信玄関連の本格的な内容の歴史の本でも、専らこちらの「御料人」の方が使われている感じなので、やはりこちらの方の表記を用いるのが適切かと思います。

 

 

 

推定1530年前後頃、諏訪頼重とその妻の小見氏(麻績氏)の一人娘として生まれる。なお、諏訪御料人の母のこの小見氏は、頼重の正室ではなく、初めから側室として嫁いできたようである。

よって頼重と後年の信玄の妹の禰々御料人との結婚は、重婚には当たらない。武田信虎の時代に、彼の娘の禰々御料人を諏訪頼重に嫁がせ、それまで諏訪氏とは同盟を結んでいたが、天文十年の六月に、武田信玄が信虎を追放すると、彼はそれまでの諏訪氏政策を一変し、天文十一年の六月に、諏訪氏内の内紛に乗じて諏訪を攻めた。

そして上原城は攻め落とされ、その後桑原城に立て篭もっていた頼重は甲府に連行され、東光寺で自害。

そして残された彼の娘の諏訪御料人は、おそらく一時親戚の禰津元直方に預かりとなり、そこから甲府に輿入れしてきたと考えられる。

しかし、実際に諏訪御料人が信玄に嫁いできた正確な年月は、判明していない。

 

 

 

 

そして天文十五年に、彼女は四郎(勝頼)を生む。

この四郎という呼び名の通り、信玄にとっては四人目の息子の誕生であった。なおこの際、信玄は、この諏訪四郎勝頼には武田氏の通字である「信」という字は名前に与えず、その代わりに諏訪氏の通字である「頼」という字を与えている。おそらくこれは、信玄が将来的にこの四男の諏訪四郎勝頼が、諏訪氏を継ぐ事を想定した上でのことだろう。

また、そうした意図を示す目的で、したのだろう。

なおこれ以降の彼女について、歴史小説などでは、信玄の並々ならない彼女への寵愛振りや、正室三条夫人との確執など、いろいろと書き立てているが、実際の史実上での、勝頼誕生後の諏訪御料人の動向は、全く不明である。また歴史小説の中では、よく山本勘介と親しい関係に描かれる事が多く、まるで彼が諏訪御料人の後見人か何かであるかのように扱われているが、彼らのこういった話も、一切具体的根拠のない話であり、明らかに作家の井上靖が自分の作品の「風林火山」中で始めた創作である。そもそもこの山本勘介自体も、正体がはっきりしない謎の人物である。そしていまだにその実在に、疑問が持たれている部分もある。

 

 

 

諏訪御料人は弘治元年十一月六日に、死去。おおよそ二十代半ばくらいで、死去したものと考えられる。

法号は乾福寺殿梅巌妙香大禅定尼である。

そして彼女の墓所は、長野の高遠にある建福寺である。

元亀二年の十一月一日には、息子の勝頼の命令により、平林寺の鉄山宗鈍が諏訪御料人の十七回忌の法要を、盛大に執り行っている。

ちょうどこの年は、勝頼が義信亡き後の信玄の後継者として、数年振りに甲府に戻った時だった。この時の法要について鉄山宗鈍の「鉄山法語集」によると、勝頼はこの時霊筵を設けて、比丘尼達を集めて、特に法華経一部を写経して、宗鈍に銘を求めたという。

よって固辞することができないため、彼は銘を書いたという。

更に天正七年の十一月六日には、これも勝頼による、諏訪御料人の二十五回忌が執り行われている。

 

 

 

なお諏訪湖の小坂観音院の供養塔は、実際の彼女の墓所ではない。(なお本当の墓所の方の建福寺であるが、武田家滅亡後は、生母の菩提寺として勝頼に篤く保護されていた寺ということも、いつの間にか忘れ去られていたらしく、後に高遠藩主となった保科氏の人々により、諏訪御料人の墓は彼らの一族の女性の墓だと勘違いされ、一緒に新しく建て替えられたという、珍エピソードもある。)

 それから、諏訪湖の小坂観音院の方といえば、数年前の大河ドラマ「風林火山」では、なぜか彼女の方が一方的に信玄から遠ざかり、こちらの方に山本勘介と隠棲するという、また史実にもない話が作られていましたが。なお、諏訪御料人の墓が長野にあることから、当サイトで紹介している「ロマンコミックス 人物日本の女性史 諏訪御寮人」もそうだが、他にも小説やドラマなどの中で、これも信玄が彼女を寵愛する余り、彼女に向こうに館を建ててやり、甲府から足繁く通っていたことにしていることがあるが。だがこれも、彼女がそこまでの特別待遇を受けていたから、彼女の墓所が長野にあるということなのか、確証はない。やはり、こういった推測も、最初から諏訪御料人が信玄最愛の女性という前提があって、そこに何もかも結論を合わせようとし過ぎているように思われる。それに、何かこれも、秀吉から淀城を与えられた淀殿の投影のようなものが、感じられてしまうような気がしないでもないような。今まで代表的な戦国の悲劇のヒロインの一人とされてきた諏訪御料人だが、このように史実上の彼女自体についての記述は、わずか数ページで済む程度である。

 

 

 

 

小説やドラマなどを中心として、彼女が父の諏訪頼重の仇である信玄の側室となった経緯については、信玄の彼女への強い思い入れが頻繁に印象的に強調されるが。しかし、結局はこの諏訪御料人との婚姻も、機内への足がかりを作るためだった三条夫人、そして諏訪御料人と同じく、これも信濃方面の各征服地の統治権を獲得するためであった、禰津元直の娘との結婚など、他の妻達との結婚と同様、政略色の強い結婚であることは、無視できない。

 やはり武田信玄にとって一番重要だったのは、何よりも彼女が諏訪氏の血を引く娘であった点であり、彼女の美貌云々というのは、おそらく副次的な要素だったと考えられる。

また彼女の美貌以外には、信玄が一体彼女のどういった所に魅了されたのかは、謎とするほかない。

なお、それ以外の理由としては、諏訪御料人が正室の三条夫人より賢い女性だったからなどというのは、例えそれが勝頼より年長の信玄の息子達が、諸々の理由で武田家を継承できなかったことによる、結果的なものに過ぎないことかもしれなくとも、後々彼女が当主武田勝頼の生母になったことによる、美化に過ぎないと思われる。それに何より、これも三条夫人悪妻説の上に成り立っている部分が大きい見方なので、私はそういう見方は取り上げない。

実際の彼女の人物像や生活がわかるような当時の史料は、一切残されていないのである。

 

 

 

 

また諏訪御料人というと、具体的な根拠もなく、勝気な女性としてフィクションの中で描写されることも多いが、どうも落人になった姫がその後、敵将の側室にされてその後当主の生母にということから、淀殿と似ていると思われやすいような。勝気で傲慢な感じの美人の側室というのも、もうそのままこれまでの淀殿像と重なる。

そしてこういった数々の歴史小説の中での諏訪御料人の姿も、私には十分悪女に映るのであるが。特に井上靖の「風林火山」の由布姫なんて、武田信玄と山本勘介という二人の男達を翻弄している感じだし、全体的にかなり強烈な女性という感じで、あまり悲劇のヒロインという印象は、湧きずらいのであるが。(この井上靖の小説では、彼女は発狂して諏訪湖で入水自殺したことになっているが、これもあまりにも信玄を憎み過ぎて、その果てについには、おかしくなってしまった感じ。)

しかし、それにも増して、いつも専ら三条夫人の方の悪女イメージの方が強調され、更に諏訪御料人の早死ということで、悪女という非難からは、免れているのであろうか?某歴史漫画の中でも「はかなく美しい一生」なんて評されているし。しかし、こういった諏訪御料人の人物描写は、正室の三条夫人の数多くの歴史小説などでこれまでの悪妻的な描かれ方も、これもどうも築山殿辺りと重ねられているのではないか?という感じの、この三条夫人悪妻説と同じで、あまり頂けない。

 

 

 

 

楠戸義昭氏は「城と女 上 毎日新聞社」の中で、「信玄を憎みながら信玄の子を産んだ女、最後には発狂して諏訪湖に入水して果てた薄幸の人」とか、初めは井上靖の歴史小説での描写を、そのまま信じてしまっている感じであるが。だが続いての個所で、後にこれらの彼女の人物描写やこの自害の展開は、一切何の史料にも基づかないものであることを知り、諏訪御料人は、作家達の自由な想像力により創作された存在だったと指摘しているが。

しかし私はむしろこれは、作家達の不自由な想像力と呼ぶべきではないかと思う。諏訪御料人の基本的な人物像については、これも三条夫人の場合と同じく、どうも淀殿という既存の有名な戦国女性に、重ね合わせているだけのようであるから。

そしておよそ日本の歴史小説の人物造型や描写が型にはまりがちであることは、上野晴朗氏も、三条夫人に関する著作の中で、指摘している。なお他の楠戸義昭氏の印象に残った指摘としては、当時のどの史料からも、彼女の息遣いは伝わってこないとか、彼女はいつしか小説を抜け出し、史実と混同された。諏訪湖には、史実に基づかない彼女の墓さえ建っているのであるという箇所である。

れはおそらく、諏訪湖の小坂観音院の供養塔のことを、指しているのだろう。確かに井上靖の小説の、上記のエピソードにちなんで建てられたのかもしれない。

 

 

それから本当に諏訪御料人が信玄の妻達の中で、一際群を抜いた存在だったのかと疑問を感じる理由としては、信玄には三条夫人や油川夫人など、諏訪御料人より他に子供の多い妻達が、いることである。

彼女達には、いずれもそれぞれ五人の子供達が生まれている。

そして後の方でもう少し詳しく述べていくが、私はこれは、無視できない注目点だと思う。いくら当主の生母とはいえ、彼女は淀殿とは違い、息子勝頼が武田家の家督を継ぐ前に亡くなり、生前から正式にそのような地位を獲得していた訳でもなく、またこのように彼女よりも多くの子供を生んでいる妻達もおり、その中で諏訪御料人は、ついに四男の勝頼しか息子を生むことがなかった。

このような彼女を、唯一成人した秀吉の息子秀頼を生んだことで側室筆頭の地位を手に入れ、豊臣家の後継者秀頼の生母として権力を握った淀殿と同じような立場の側室であったとするのは、早計に過ぎるのではないだろうか?信玄は一見、それなりに男子には恵まれているようではあるものの、実は次男信親の盲目や三男信之の夭折などで、新たに油川夫人を妻として迎えるまでは、彼には健康かついまだに健在の息子達が、義信や勝頼くらいしかいなかったのである。

そして実際に、このような子供達の状況から、信玄も武田家の前途に不安を感じ、おそらく家臣団の勧めにより、同じ武田一族で重臣の娘でもある彼女を娶ったのではないか?と推測する、武田氏研究の重鎮である上野晴朗氏のような意見もある。

(元々、信玄の妻達については数多くの作り話で溢れていますが、この油川夫人についても、あまり詳細はわからず、信玄が生来の好色さから新たに彼女を娶ったというのは、ドラマなどでの全くの創作です。

少なくとも、そういう風に書いている史料はありません。

そして彼女が美人だというのも、これまたおそらく井上靖や新田次郎などの作家が始めたと思われる創作です。)

 

 

 

息子なら、家督継承や即戦闘要員として、そして姫なら外交上で利用できる道具として、有効に使えるのである。

このように、一族が多いということは、天下取りという大事業を、有利かつ効率的に進めていくアイテムに、より恵まれているということである。例えば代表的な事例としては、二代で滅亡した豊臣家と徳川家の磐石な長年の幕藩体制を比べてみるとよくわかる。

もちろん、これは子供の数の多い少ないだけではなく、他の要因もあるであろうが、子福者の家康とほとんど子供を授からなかった秀吉というのも、この二家の運命に与えた影響はあるだろう。

果たしてこのような当時の武田家での状況で、一人しか息子を生んでいない側室である彼女が、信玄の妻達の中で淀殿のように頭一つ飛び抜けた存在に躍り出ることなど、本当に可能であったのだろうか?

こうした点が無視されがちで、これまであまりに彼女の息子勝頼が武田家を継いだという一点にばかり、注目し過ぎてきたのではないだろうか?これもこれまで根強かった三条夫人の悪妻説やその夫の信玄との不仲説と同じく、この諏訪御料人が信玄最愛の女性という先入観も、いつまでも強過ぎる気がするのだが。

またこれまでほとんど真面目に考察もされてこなかったが、いろいろと考えられる、正室の三条夫人の役割も併せて考えれば、更に疑問を感じる。

 

 

 

 

それに、私がこれもいつも強く感じていることだが、いつもフィクションに限らず、どの書籍の中でも、彼女の悲劇ばかり強調されやすいことや、三条夫人に比べ、好意的な扱われ方ばかりされやすいのも、やはり、何よりも彼女が武田家当主武田勝頼の母だから、何かとひいきされやすいからだと思われるし。

しかし、私はこれまで三条夫人も含めて、いろいろ考察してきた結果であるが、小説やドラマなどでよく描かれるように、信玄が諏訪御料人の息子である勝頼に、最初から武田家を継がせたいと思っていたとは考えずらいと思う。武田家とは過去に様々な因縁があった諏訪氏の血を引く、そして側室の息子の勝頼よりも、母方の血筋・何よりも正室の息子であること、そして本人もけして無能ではなく、なかなか有能な息子であったことなどから穏当に考えて、やはり将来の自分の後継者は義信にと考えていたのであろう。

勝頼の存在が義信に代わる武田信玄の後継者として浮上してきたのは、あくまでも信玄と嫡男義信との間の、駿河侵攻などを巡ってとされる諍い、そして義信が東光寺に幽閉され、廃嫡になる前後からであったと思われる。

 

 

典型的な悲劇の戦国女性ということでか、これまで諏訪御料人を中心に扱ったフィクションは数多く、その中で彼女を薄幸の美女及び信玄最愛の妻である武田勝頼の生母として、極めて印象的に取り上げているものが多い。しかし、彼女の実像がわかるような史料などは、一切残されておらず、この諏訪御料人についても、やはり濃姫などと同じく、史実から離れた、フィクションなどでのイメージが、一人歩きしているのではないかと思われる。なお彼女の母である小見氏の方は、早死した娘とは対照的に、かなり長生きしたようである。母である彼女の方が、娘の菩提を弔っている記録も残っている。