松東院メンシア
メンシアは、天正二年に、肥前南部の大名大村純忠の五女として、生まれた。場所柄もあり、彼女の父純忠は、永禄六年にキリスト教徒となり、「ドン・バルトロメウ」の教名を受け、日本最初のキリシタン大名となっていた。また、おそらく彼の後妻と考えられる、メンシアの母も、受洗して「マグダレナ」の教名を持っていた。
このような環境から、彼らの娘メンシアが後に両親と同じくキリスト教徒となるのも、ごく自然な流れだったのだろう。
天正十四年に、それまで大村氏と南蛮貿易を巡り激しく争っていた、松浦氏との間に、和睦が結ばれ、松浦鎮信の嫡男久信と、大村純忠の五女メンシアとの間に、婚約が取り交わされた。
元々平戸は中世以来から海外との交流で栄えていた場所であり、平戸の領主松浦氏は肥前西部に分立する松浦党の一族で、鎌倉時代以来海賊として知られ、上松浦の波多氏に対し、下松浦の旗頭であった。そしてこの両家の婚姻の背景には、南蛮貿易の争いが大きく絡んでいた。
初め、平戸を治める隆信は、海賊と結んで貿易の利を計っていた。
しかし、その内にポルトガル船が運んできた、時計や葡萄酒、銃などの珍奇な品々に驚き、やがて南蛮貿易に、関心を向けていくようになる。しかし、隆信が求めたポルトガル船との貿易は、同時に乗船してきたイエズス会の宣教師達の布教も認めるという条件付きのものであった。結局、隆信は貿易欲しさに布教を認めため、しだいに平戸の町には、キリシタンが増え始めていく。
しかし、一方で松浦家中には、古くからの仏教徒も多く、キリスト教徒との間に、激しい対立を生じていた。
その内に隆信は彼ら家中の仏教徒に押され、ついに宣教師達の活動を制限した。だが彼の取った処置は、貿易の見返りに布教の拡大を計ろうとする宣教師達には、到底許容できないものだった。
そのため、彼らと隆信との間には、悶着が絶えなかった。
そしてついに、決定的な事件が起こってしまう。
永禄四年(一五八一)の八月、多くのポルトガル人が、平戸の町人により殺傷される事件が起こった。
しかし、この事件の処理に当たり、領主隆信は誠意ある対応を示さず、事件は解決されないままに終わり、これによりポルトガル側との断絶は、決定的になった。
そしてこの事件後、宣教師のアルメイダとトルレスらは、平戸に代わる新しい入港地を探し始めた。
その結果、彼らの対象に浮上したのが、水深・碇泊の条件を備えた横瀬浦であり、そこの領主が大村純忠であった。
そして彼らと純忠の間で、秘かに交渉が行われ、純忠の快諾を得て、永禄五年に横瀬浦の開港が実現し、以降は貿易港として急速に繁栄して人口も増加していった。しかし、その後領内にクーデターが起こり、横瀬浦港は破壊されてしまったため、福田浦を開港して貿易を復活させた。しかし、福田港は外港のため、港湾機能が悪く、更に長崎へと港を移す事になった。
このような経緯から、松浦鎮信は、この結婚により、宣教師達の信頼を取り戻し、貿易を復活させようとしていた。
しかし、メンシアの父純忠の方は、娘メンシアの信仰を守らせる事を条件に、松浦家との縁談を承知したのだが、松浦家は徹底したキリスト教嫌いであり、これからの異教徒達の中での娘の苦難を思い、それを何よりも案じていたという。
そして天正十五年、四月十八日、彼は娘を案じたまま死去した。
この天正十五年の五月から七月に、メンシアの輿入れは、行われたと考えられる。そして純忠の死の翌月、豊後で彼と同じくキリシタン大名の大友宗麟が死去した。この二人のキリシタン大名の死は、その後のキリシタン達の運命に暗い影を落とす事になっていく。
松浦久信に嫁いだメンシアは、父の遺訓を守って、キリシタンとしての信仰を続けた。しかし久信との結婚の条件に彼女の信仰を許した松浦家だったが、二人の結婚後、宗教上の習慣や考え方の相違に、早くも夫久信の祖父隆信(道可)や父鎮信(法印)達はこれに反対し彼女に信仰を止めさせようとした。そしてこのメンシアの改宗圧力に一層拍車をかけたのは豊臣秀吉によるキリスト教禁止令だった。
天正十五年の六月十九日島津討伐を終えた秀吉は、突然キリスト教に対し国内の布教を禁止し、宣教師達には二十日以内に国外退去を命じた。禁止令が発布された後は大名達もキリシタンとの関わりを断たなければならなかった。九州地方のキリシタン大名の一人だった高山右近はキリスト教禁止令に従わず、棄教しなかっため、追放となった。この布告を受け松浦家でも、隆信や鎮信がメンシアに棄教を強く追まり久信もこれに同調した。そして棄教しないのなら離縁するとまで言った。しかしメンシアは、信仰を捨てる事を断固として拒み、ためらう事なく久信との離縁を選び、実家の兄の大村喜前に使いをやって迎えにきてもらうように頼んだ。
その内に久信もこの彼女の信仰の強さに心を打たれ離縁する事を止りやめた。また松浦家の一族で熱心なキリシタンだった籠手田イザベラが彼女の味方となって励ましてくれた。また夫の久信も彼女の信仰に理解を示すようになってくれた。この頃メンシアは、屋敷の中に小さな聖堂を作って秘かに礼拝していた。そして久信も、これを許可していた。メンシアはもしこの事が秀吉の耳に入り、彼の怒りに触れるようならいつでも死ぬ覚悟をしていたという。
天正十九年に、メンシアにとって、記念すべき感激的な出来事が起こった。イエズス会の巡察師ヴァリニャーノ神父が、キリシタン禁止令を解除してもらう目的で、すでにロ―マに派遣されていた四人の少年使節と大阪城で秀吉に謁見し、その帰りに平戸に立ち寄ったのである。
一行の来訪を知ったメンシアは、義父鎮信と夫久信に神父に会わせてほしいと頼み、こうして神父との対面が実現した。この対面に、彼女は大きな幸福と感激を感じ、ヴァリニャーノ神父の足下にひれ伏し、子供のように泣きじゃくった。そしてメンシアは、父から贈られた聖像や聖なる遺物を安置した自分の秘密の聖堂を神父に見せ、自分にはいつでも殉教の覚悟ができている事を告げた。
そしてそんな彼女に、ヴァリニャーノ神父は、信仰を貫いた純忠の面影を見る思いがしたという。
この感動の神父との対面以降、メンシアの信仰は更に深くなり、何か疑問点があれば大村のバテレンに手紙を出して教えを乞うた。その後間もなく彼女は長男の隆信を生んだ。これが後の二十八代当主松浦隆信である。更にその後も次男信清など、次々に四人の息子や娘達が生まれた。
文禄元年の秀吉の朝鮮出兵に従い、松浦鎮信と隆信が出陣中に長男隆信が重病にかかったので、メンシアは籠手田イザベラに頼んで洗礼してもらう事にした。その後幸い隆信が回復したので、メンシアは感謝して、他の子供達にも洗礼を受けさせた。
キリシタン弾圧を行っていた秀吉は慶長三年に死去した。
しかし朝鮮から帰国した鎮信は、領内のキリシタンに対して棄教を命じ、再びメンシアにも、信仰を止めるように強く迫った。
だが次男の信清以外は、母と同じく洗礼を受けさせられていた長男隆信らの子供達の抵抗や、おそらく夫久信の擁護あり鎮信は、ついにメンシアの信仰を、止めさせる事ができなかった。
秀吉死後に起きた慶長五年の関ヶ原の合戦で東軍の徳川家康が勝ち、西軍に参加し、キリシタン大名の一人だった小西行長が敗死した。だが同じキリシタン大名でも、こちらは東軍に参加した松浦氏は所領を安堵された。この二年後の慶長七年に、メンシアの夫松浦久信が父の鎮信より先に死去した。享年三十七歳だった。
こうして隠居の鎮信が藩主に返り咲くと、息子久信より容赦ないキリシタン弾圧を強行し、領内で殉教者が続出した 。
徳川氏による江戸幕府の支配が始まると、秀吉時代よりも徹底してキリスト教を全面的に禁止し、キリシタンに対して弾圧を強め、キリシタンにとって、ますます厳しい時代となっていった。慶長十九年、松浦鎮信が六十五歳で死去すると、メンシアの長男隆信が藩主になった。
やがて元和の大殉教が始まると、受洗していなかったメンシアの二男信清が幕府の手先となって、キリシタン弾圧を強行したため、平戸でも多くの殉教者が出た。
自分の子が率先してキリシタン迫害を行うようになった事に、メンシアは悲痛な思いであった事だろう。
しかし長男隆信は、母の信仰を妨げないように守っていた。
ところがその内に、平戸藩主の母が国禁を犯していた事は、幕府の知る所となり、寛永七年に六十六歳のメンシアは幕府から呼びだされた。この時の彼女は、おそらく幕府に呼びだされた 時点で、殉教を覚悟していたのだろう。平戸から出向いてきたメンシアを、松浦家の菩提寺である下谷の広徳寺に隠棲させた。
この広徳寺には、後に柳川藩主立花宗茂や、三池藩主立花直次兄弟もここに埋葬された。
またこの寺には、寛永元年に切腹して死去したメンシアの二男信清が埋葬されていた。彼の自害の理由は不明である。
なお、キリシタン弾圧を行なった、このメンシアの次男信清の謎の自害の理由について、「戦国九州の女たち」の著者の吉永正春氏は、これを母も信仰するキリスト教を信じる大勢のキリシタンの弾圧を行なった事による、彼の罪悪感からではないか?としている。
寛永十四年に、隆信が江戸藩邸で死去した。
享年四十七歳。年老いていたメンシアは、長男の隆信と二男の信清の二人の子の墓を見守りながら毎日ひっそりとここで過ごしたという。
隆信の後を、その子の鎮信が継いだ。
しかし、隆信が死んで二年後に、松浦家を危機が襲う。
隆信家臣だった浮橋主人という者が、幕府へと松浦家を訴えたからである。その内容というのは、前藩主の母メンシアが、禁制のキリスト教を信仰しているのを、家族の者が知りながらみんなで長い間隠していたというものである。松浦家の命取りになりかねない事件かと思われたが、幕府は訴え出た浮橋主人を、虚言捏造の罪で遠島送りにして裁きを終えた。隆信は生前、毎年将軍家を始め、幕府の要人に対して贈物をオランダ商館長を通じて届けさせていた。
オランダ商館は江戸初期にはポルトガルに代わり平戸にあった。
鎖国時代には出島を拠点に、唯一の貿易活動を許されていた。
おそらく、こうした事から松浦家に対しての幕府の印象が良かった事は事実だと思われる。
また、広徳寺にメンシアを隠棲させたのも、菩提寺ならば藩主の隆信が母といつでも自由に会う事ができるだろうとの、幕府の配慮だったと考えられる。明暦三年まで、広徳寺でひっそりとした生活を送ったメンシアは、最後まで信仰を捨てず八十四歳で死去した。
その後、松浦家の墓は江戸から平戸に移されたが、メンシアの孫鎮信は、父隆信のために正宗寺を建てた。
そして隆信の母メンシアも、この同じ墓所に埋葬された。
法号 松東院月心宗玉大姉。
大村マルタ
天正十四年(1586?)―没年不祥。
正式にこういう呼び名で通っているのでは、ないとは思うのですが。
最初は、私はこの大村マルタ自体に、関心があった訳ではありませんでした。私がこのキリシタン大名の大村喜前の娘で、やはりこれも最初はキリシタン大名だった有馬直純の前妻の存在を知ったのは、ふとしたことからです。最初は珍しく、源頼家遺児の竹御所について、フィクション以外で触れられている本という目的で、あくまで最初は竹御所目的で、永井路子の歴史エッセイ集「女の修羅・男の野望 PHP研究所」を読みました。そしてその中の「幻の女たち」の章で、九州のキリシタン大名有馬直純の、どうやら実際には離婚されていたらしい、その生没年すら定かではないらしい、謎の前妻の存在を知りました。
これで私は有馬直純のこの前妻に興味が湧き、彼女を主人公に取り上げているらしい、永井路子の短編小説「お菊さま」(「山内一豊の妻」収録。)を、読んでみたくなりました。
そしてこのエッセイの中では、著者ご本人もいまひとつ納得のいく仕上がりにならなかったとこぼしておられる通り、確かに初めはこの妻の心理など、何かと消化不良な印象が強く、私もモヤモヤとしたものが、いつまでも残る読後感だったのですが。
ですがその内に、これはこれで味があるかなという気がしてきて、本書では一番好きな話になりました。
確かに、フィクション部分の方が強い内容なのですが、彼らの離婚が、本当にこういうような感じの真相だったら、面白いなと思いました。
また、人によって好みが分れる話かもしれませんが。
この著者の小説にはたくましい女性が多く、どこか危さを感じさせる、こういうタイプの女性は彼女の小説にしては、珍しいかなという感じがしました。でも、最後の、強い余韻を残す、思い切った彼女の決断には、やはり、永井路子小説のヒロインかなと納得がいくものを感じました。
侍女と同じく、どうか彼女の魂に平安が訪れんことをと、願いたくなるような読後感でした。不思議な味のある話でした。
このように、永井路子の上記のエッセイの一章と、ほとんどフィクション色が強い、永井路子の小説作品の内容くらいしか、彼女について参考にできるものがないので、こうして取り上げるのには、適さない人物なのかもしれません。
確かに、この大村喜前の娘のマルタって、謎だらけの女性ですし。
また彼女の生没年も不祥で、判明しているのも洗礼名のみ。
しかも、彼女には五人も姉妹がいたらしく、皆正室所生のようですが、おそらくこのマルタの姉妹達の中で、とりあえず年齢が推測でき、かつ一番年上と思われる娘が松浦隆信の正室で、彼がマルタの夫だった有馬直純より六歳年下なので、おそらくマルタは長女かと考えられます。ちなみにこのマルタの姉妹が嫁いだ松浦隆信は、既にこのサイトの他の記事の中でも紹介している、こちらは有名な戦国女性の松東院メンシアの長男です。
そしてこのメンシアは、大村喜前の妹なので、メンシアとマルタは、叔母と姪の関係に当たります。
確かに大村家は、かなり熱心なキリシタンの家だったようです。
メンシアやその兄の大村喜前のいとこには、あの有名な天正少年使節団の一人である、千々石ミゲルがいますし、またメンシアの息子達の内、次男の信清以外のこの長男の隆信と三人の娘達は、皆キリシタンになっていたようです。そしてここから、その永井路子の戦国に題材を採った短篇集「一豊の妻」の「お菊さま」のネタばれが入るので、これから読む予定の人は、読まないでください。
この大村マルタに話は戻りますが、この夫婦の離婚の理由については、小説中での解釈としては、たかだか四万石のために、汲々と家康の顔色を窺い、自分がキリシタンであることを離婚の理由にする格好の口実と思い、自分との離婚の機会を狙っている、そんな夫有馬直純への彼女の失望。更にそんな男とは知りつつも、一女をなし、かつては睦み合ったと思われる夫に対する、愛憎半ばする複雑な想いから、妻の彼女が離婚に応じてあげたように、解釈しています。
そして彼女が侍女に向かって、私は捨てられたのではない、むしろ自分が情けない夫を捨てたのだと言い放つ様は、どこか必死に強がっているようでもあり、何とも言えない痛々しさがありました。
本当に有馬直純・マルタ夫妻の離婚が、こういうような感じの真相だったら、面白いなと思いました。
ちなみに、慶長十年、直純二十九歳の時に、やはり再婚同士になる国姫と彼は再婚しているので、彼がマルタとの離婚から、ほとんど間を置かないで国姫と再婚していたとしたら、マルタは直純と十数年くらいは、一緒に夫婦として暮らしていた訳で。
それなら、確かに一子をもうけ、それだけ長く連れ添っていたら、彼女にそれなりに夫に対しての情があったと考えても、不思議はない気がします。元々彼らには親戚同士という繋がりも、ありますし。
またかつては同じキリシタン夫婦としての結びつきも、あったでしょうし。
もし直純との離婚後、マルタが再婚していたら、大村家は幕末まで残ったようですし、いくら何でも何らかの形で消息が記述されていそうなので、やはり、彼女はそのまま再婚もしないまま、亡くなった可能性が高いのかもしれませんね。
ある意味では情念の昇華かも?と思われるあの小説での終わり方に対して、史実の方のマルタは、やはり相当悲しい女性かなと思います。それから離婚した夫の方の直純ですが、後妻に迎えた徳川家康養女国姫の威光や働きかけなどで、父の有馬晴信の絡んだ、岡本大八事件の騒動も何とか潜り抜けたものの、その後は島原の乱など、何かと苦悩の人生を強いられたようなので、結局収支決算のようなものは、合っているのかもしれません。
しかし、またこの直純の再婚相手の国姫が、すごい逸話のあるお人らしくて。胸毛が生えていて、かつ容姿端麗って、一体どういうこっちゃ。
普通なぜか両立しないはずの単語が、この一人の女性についての記述の中で並立しています。
多分、いくらなんでもこれは事実ではないとは思うのですが。
しかし、この歴史書「国乗遺聞」の中の国姫についての記述は、更に剛毅かつ武技にも優れていた女性であると続くので、もしかしたら、徳川家康の孫娘で養女でもある彼女は、気丈な女性であると筆者は称えたかったのかもしれません。
しかし、その筆者の国姫を称讃しようとする意図が行き過ぎて、ついつい、筆が誇張気味になり、彼女について、とうとうこんな大袈裟な、普通容姿端麗な女性にはないと思われる、すごい身体的特徴まで、思わず付け加えてしまったということでしょうか?
父の有馬晴信の岡本大八事件で、有馬家が取り潰されそうになった時、実父の本多忠政を通じて家康に対して熱心な運動を続け、夫直純の窮地を救うなど、(確かに、なかなか頼もしい妻ではあったようです。有馬藩は取り潰しを免れただけではなく、更にその後一万三千石の加増までされて日向に転封になっている)
ちなみに彼女の母の熊姫も、相当強烈な女性であったらしく、やはり、女丈夫の血統なのでしょうかね?
国姫の法号は「栄寿院殿繁室良昌大禅定尼」ですが、「繁室」とは、もうそのままの意味で、有馬家の繁栄に貢献した良い妻ということでしょうし、確かに有馬家にとっては、大変に有難い奥さんと呼ぶべきであり、彼女に相応しい戒名かもしれません。
しかし、徳川家の姫なのに、こんな話が書かれているのもすごいですね。胸毛が生えていてなんて普通、ほめ言葉じゃないだろ、姫に対して。何だか、途中から離婚された有馬直純の前妻マルタの話というより、こんなすごい逸話が残されている、国姫の話になってしまいました。